「日本のファンはプロレスを見る目が肥えている」と外国人レスラーが口をそろえる。それは相撲や柔道、剣道、空手といった武道が広く一般にまで浸透していることからくると思われる。 それだけにストーリーよりも試合内容を重視する傾向にある。新日本プロレスでは変則ルールの試合においても、金網やチェーンといったアイテムを使用したものでなく、正々堂々と決着をつける方式が採られることが多い。ハンディキャップマッチがその代表例である。 ハンディキャップマッチとは1対2や2対3など、異なる選手数で対戦する形式。体格、体重差が大きく異なっていて見るからに実力差がかけ離れている場合に、均衡を図るべく採用される。
新日本プロレスで初めてハンディキャップマッチが採用されたのは74年の「新春黄金シリーズ」、1月11日、山口・徳山(現周南)大会。同シリーズに来日していたマクガイヤー兄弟(ビリー&ベニー)が永源遙、藤波辰巳(当時)、藤原喜明、大城大五郎の中堅・若手と2対4で対戦している。それでも双生児の肉の壁は厚く、翌週(同18日、後楽園ホール)には2対6(日本組は、山本小鉄、小沢正志、栗栖正伸、木村たかし=健悟、藤波、荒川真=ドン荒川)といったカードも組まれた。
翌75年の再来日では、アントニオ猪木が1対2の逆ハンディキャップマッチでマクガイヤー兄弟と対戦(75年2月4日、大田区体育館)、フォール勝ちを記録。しかし、その巨体から倒れてしまうとなかなか起き上がれない点をついてのカウント3。猪木が強さを見せつけて勝利した感は希薄だった。
ほかにはアンドレ・ザ・ジャイアントがハンディキャップマッチを闘っている。中堅・若手を相手とした1対2の試合が組まれることが多かったが、アンドレの場合は強さを見せつけて圧殺する印象。ほかにもスタン・ハンセン、ビッグバン・ベイダーなどが新日本でハンディキャップマッチを闘っている。
その中でも異色なのが、猪木がはぐれ国際軍団を迎え撃った変則タッグマッチ。81年10月の初対決から執ように猪木の首を狙うラッシャー木村。正攻法ではかなわず、次第にシングルマッチは組まれなくなっていった。何とか一騎打ちにこじつけるべく、ゲリラ戦法に打って出る。シリーズを通じて再三にわたって乱入・拉致を繰り返す。
試合をぶち壊されて怒りが頂点に達した猪木が「3人まとめてやってやる!」と叫んだ言葉尻をとららえて実現したのが1対3。圧倒的な体格差や実力差がないだけでも大きなハンディ。それに加え、猪木は国際軍団3人からフォール、ギブアップを奪わないと勝利にならない変則ルールでの闘いだった。
82年11月4日、蔵前国技館でおこなわれた一戦では、猪木が寺西勇、アニマル浜口を沈めながら、エプロンでR・木村のラリアットを浴びてロープに宙吊りに。それまでの闘いで大きくスタミナをロスしていた猪木は、そのままカウントが数えられてリングアウト負けを喫した。
翌83年2月7日、同じ蔵前で行われた再戦では、猪木が逆ラリアットを決め、一番手でR・木村からカウント3を奪い、コブラツイストで寺西からもギブアップを奪った。しかし場外戦で勢い余って浜口を場外フェンス越しに投げ捨てたことからフェンスアウトを取られて反則負け。やはり3人相手では勝利するのは難しかったが、この1対3変則タッグ2試合が、国際軍団との抗争の頂点でもあった。
ただ国際軍団からすれば、いくら相手が猪木とはいえ3人でようやく一人前と受け取れるような屈辱的なカード。人数で有利であるにもかかわらず敗れてしまっては、商品価値はなくなってしまう。なんとか2度とも踏みとどまったが、この一戦を機に国際軍団の足並みは少しずつ乱れていった。
(つづく)
橋爪哲也