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2022-06-19

バッドニュース・アレンの告白「プロレスに転向したのはカネのため」新日本プロレス歴史街道50年(44)【週刊プロレス】

バッドニュース・アレンvs坂口征二

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新日本プロレスに留学、その後、逆輸入レスラーとして常連となる道を開いたのがバッドニュース・アレンだった。一時はWWF(当時)でハルク・ホーガンとの抗争を繰り広げたが、その際もアントニオ猪木の必殺技である延髄斬りをゲットー・ブラスターの名で使用していた。旗揚げ50年を迎えた新日本の歴史に名を遺した“黒い猛牛”。20年前、旗揚げ30周年特別企画としてカナダ・カルガリーで行ったインタビューをここに再録する。

※2002年5月16日発売のプロレス専門紙に掲載。リングネーム、団体名などの表記は当時のもの。
 
――最後に来日されたのが98年でしたから4年ぶりになりますけど、全然、変わってないですね。

アレン ノー、ノー、変わったよ(笑)。

――そんなことないですよ。今すぐリングに上がってもおかしくないです。ところで現在、何の仕事をされてるんですか?

アレン セキュリティー(警備)だよ。毎日、夜8時から明け方までの勤務さ。

――新日本が10月にレジェンドを招へいする企画を練っているんですけど、久しぶりにリングで暴れてみては?

アレン そうなのかい? でも、それにはウエートを10kgぐらい絞らなきゃ。それに両ヒザの手術をしてからリングに上がってないんで、恥ずかしくない試合ができるかどうか……。日本にはたくさんの思い出があるし、柔道をやっていたオレにとっては第2の母国みたいなものだから、ぜひ行きたいけどね。

――その日本での思い出を語っていただきたいんですけど、まず76年、モントリオール五輪の柔道で銅メダルを獲得したあなたが、プロレス転向したきっかけは?

アレン ズバリ、マネーさ。モントリオール・オリンピックが終わってから柔道のコーチとして働いていたんだけど、カネにならなかった。

――4年後(80年)のモスクワ五輪を目指すことは考えなかったんですか? まぁ、そうしていてもアメリカのボイコットで参加できなかったですけど。

アレン モントリオール・オリンピックの時、すでに33歳だったからね。そういう考えはなかった。

――プロデビューは77年10月、坂口征二との柔道ジャケットマッチでしたよね?

アレン イエス。

――ではなぜ、日本でデビューすることになったんですか?

アレン いろんなところで柔道を教えていたけど、ユネスコの関係者がミスター・シンマ(新間寿氏)とのコネクションを持っていて、そのラインから日本に行くことになったんだ。

――デビュー後は新日本に“留学”されました。

アレン イエス。1年間、ニュージャパンのドージョーでプロレスの基本を学んだ。実は初めて日本に行ったのは70年。日本で柔道の練習をした。だからニュージャパンに留学したのは2度目(の来日)になる。オレの場合はドージョーに住み込んでじゃなく、京王プラザ(当時、新日本に参戦する外国人レスラーの東京での常宿)から毎日ドージョーに通った。

――新日本道場での練習はキツくなかったですか?

アレン ノー。柔道の練習のほうがキツかった。オレは1年間、毎日一番にドージョーに行って、最後にドージョーを出たよ。

<プロフィル>
本名アレン・コージ。1943年10月22日生まれ、アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク出身。18歳で柔道を始め、AAUなどのタイトルを獲得。76年、モントリオール五輪で銅メダルを獲得。アメリカ人では初の柔道メダリストとなる(2人目はロンダ・ラウジー=金メダル)。翌77年、プロ転向。同年10月25日、日本武道館、坂口征二との柔道ジャケットマッチでデビュー。その後、新日本に1年間“留学”。ミュンヘン五輪で2階級制覇を達成したウイリエム・ルスカとも柔道ジャケットマッチで闘う。留学期間を終えると、フレッド・ブラッシーをマネジャーにアメリカ東部(WWF=当時)をサーキット。80年から外国人サイドで新日本マットに定着。外国人エースをサポートする立場で、日本人サイドにとっては嫌な存在。同じ柔道出身の坂口の好ライバルとなる。92年、UWFインターナショナルに移籍。97、98年には新東京プロレスに来日。99年、両ヒザを手術を機に引退。その後、カナダ・カルガリーで警備会社に勤めていたが、2007年3月6日、急性心不全で死去。63歳だった。

橋爪哲也

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