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2022-07-07

他流派ながら極真の大会でベスト16の快挙! 弟子らにせがまれ23歳の若さで空手道場を開く…青柳政司さん伝説(3)誠心会館誕生【週刊プロレス】

青柳政司さん

7月6日、空手家でプロレスラーの青柳政司さんが永眠。享年65。青柳さんは「誠心会館」の館長であり、生前は「青柳館長」の呼び名で親しまれた。1989年10月、FMW旗揚げ時に大仁田厚と抗争を繰り広げ、そこからプロレス界に本格参戦。新日本、NOAH、プロレスリング・マスターズで活躍してきた。

青柳さんのご冥福をお祈りして、生前の2014年に週刊プロレスで語っていた半生を紹介。第3回目は空手家時代。誠心会館誕生について。

        ◎

18歳になると運転免許を取得。助手から一人前になり、しばらくすると眠っていた空手の才能が開花。東海地区のさまざまな大会で優勝を収めていき、1978年11月、22歳の頃、他流派ながら極真の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」で、128人中ベスト16まで食い込む。

「東海大会とか中部の大会とかはもう出ちゃダメだって言われてたんですよ。優勝しちゃうと次の人が優勝できないから。それで極真の大会に出ようと思いました」

その大会で印象的な出来事があった。初日の1回戦、2回戦を突破した青柳は、2日目の本戦へと進出。他流派が勝ち進むことを極真は快く思っていなかったようで「試合前にボクの名前が呼ばれると、主審、副審が全員集合してなんか話してたんですよ。絶対に勝たせるなって指示が出てたんじゃないですか」。完全なアウェーだった。

しかし、青柳は逆境をはね返す。3回戦で勝利を収めたのだ。準々決勝では相手に打撃をキャッチされ、足を払われると強烈な一撃をアゴに被弾。気付いた時には医務室にいた。

空手では相手をつかむ行為は禁止となっている。普通ならば反則勝ちになっているはずなのだが、極真が出した結果はその逆。「試合ができないから負け」になっていたという。

ちなみに「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」の優勝は空手界の貴公子こと二宮城光。屈辱を味わわされた青柳だったが、その気持ちは実にポジティブだった。強い人がゴロゴロといる極真で空手を極めてみようと思ったのだ。

23歳で会社を退職。約8年間続けてきた道場にも行くことができなくなってしまった。当時、青柳は教室を持っており、約80人いた門下生も全員「先生がいなくなるなら私たちも辞めます。先生が帰ってくるまで待ちます」と続いたため、道場を閉めることになったという。

青柳は上京して東京・池袋にある極真会館の本部に入門。再び白帯から空手を学んでいったが…。

「練習をやってるうちに、自分で気付いたんです。極真会館が大きいから強いわけじゃなくて、本人ががんばるかがんばらないかで違うんだなって。結局、やる人の気持ちで強くなるんですよ」

青柳は極真を半年も経たずに辞め、地元に帰った。すると、元・弟子たちの間で教室を再興させようという動きが盛り上がり、青柳は一念発起して自分の道場を開くことを決意。32坪のバラック小屋だが、ここに誠心会館が誕生した。

「絶対に極真に負けたくないって思いはありましたね。25歳ぐらいで石井(和義=元K-1プロデューサー)館長の正道会館の大会が始まって、第1回からエントリーしました。5回目くらいまではずっと出て、ベスト8は何回かあります。さすがに空手だけじゃ生活できないんで、トラックの運転手もやりながらでしたけど、本当に毎日が楽しかったですね」

朝早くから夕方までは大型トラックに乗って、豊田から大阪や京都を往復。就業後は道場で館長として弟子と一緒に空手道にまい進。肉体的には当然、かなり過酷だったが、充実した生活を続けていた。

「シルベスタ・スタローンがオーバー・ザ・トップって映画でトラックに乗りながらバーベル上げてましたけど、ボクはその前からやってましたから(笑)。右手で運転して、左手でバーベルを上げてたから、信号待ちとかで隣になった車の運転手は驚いてましたね。あと拳を鍛えるためにフロントガラスを殴ってたんですけど、2枚割っちゃいました。会社には石が飛んできて割れたことにしてありますけど(笑)」

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