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2022-07-07

ジャイアント馬場&アントニオ猪木よりも外国人選手が好きだった…青柳政司さん伝説(1)プロレスとの出会い【週刊プロレス】

青柳政司さん

7月6日、空手家でプロレスラーの青柳政司さんが永眠。享年65。青柳さんは「誠心会館」の館長であり、生前は「青柳館長」の呼び名で親しまれた。1989年10月、FMW旗揚げ時に大仁田厚と抗争を繰り広げ、そこからプロレス界に本格参戦。新日本やNOAH、プロレスリング・マスターズで活躍してきた。

青柳さんのご冥福をお祈りして、生前の2014年に週刊プロレスで語っていた半生を紹介。第1回目は学生時代。プロレスとの出会いについて。

           ◎

プロフィル上は愛知県豊田市出身。現在のプロレス界で東海地区のシンボル的存在の青柳政司だが、実は福岡県糟屋郡生まれ。祖父は炭鉱の仕切っており、力道山時代にはプロレスのプロモーターをやったこともある地元の名士だった。しかし、それもあとで聞いた話。九州にいた頃の記憶はまったくない。

父は青柳が生まれてしばらくは糟屋郡で炭鉱労働者として働いていた。だが、エネルギー革命の影響で炭田は少しずつ姿を消していった。一家は食い扶持を求め、愛知県豊田市へと引っ越すことに。

新天地で父はタイル関連の仕事に就職。住み慣れた土地を離れて、豊田市にやってきた青柳少年は、小学校低学年まで意外にもシャイだった。原因は言葉の壁である。引っ越して間もないこともあり、どうしても九州弁が出てしまったのだ。

「小さい頃はメチャクチャ恥ずかしがり屋で、豊田に来てからしばらくは九州弁が出るがイヤで人と話せなかったですね。なんか自分から拒否しちゃってました」

みんなと話している言葉が違う。幼心でもそんなことはわかった。周りは友だちになろうとしてくれているのだが、青柳少年はなかなか自分からしゃべることができずに、大人しかったという。

それでも、そんな日々はすぐに終わる。人間の適応力はすごい。豊田で時を過ごすうちに青柳少年は地元の言葉にも慣れ、小学校中学年あたりになると、だんだんと友だちとも打ち解けていったのである。

学校生活は楽しかった。青柳少年は元気いっぱい。とにかく遊んだ。勉強は全然ダメ。通知表は5段階で1ばかり。1本の線でつながっているようだったが、最後の体育だけは5。それを父親に見せたら「オマエはえらいな~」と笑っていた。 

スポーツは小学校高学年から水泳を始め、メキメキと上達して、各大会で優勝。市や県大会の代表に選ばれた。ちょうどその頃にプロレスと出会う。

思春期に差し掛かってきた頃、力道山はすでにこの世からいなくなり、時代はジャイアント馬場、アントニオ猪木がプロレス界の中心だった。しかし、青柳少年の胸に響いたのはその対戦相手であるドン・レオ・ジョナサンやブルーノ・サンマルチノといった外国人選手。だが、身長が低かったので、レスラーになりたいと思う余地もなく、ただのあこがれとして四角いジャングルに羨望のまなざしを送っていた。

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