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2022-07-07

新日本と抗争、平成維震軍、WWFマニアツアー、NOAH参戦、東久邇宮文化褒賞受賞…青柳政司さん伝説(5)一生打倒プロレス【週刊プロレス】

2015年10月、NOAH名古屋大会で引退した青柳政司さん

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7月6日、空手家でプロレスラーの青柳政司さんが永眠。享年65。青柳さんは「誠心会館」の館長であり、生前は「青柳館長」の呼び名で親しまれた。1989年10月、FMW旗揚げ時に大仁田厚と抗争を繰り広げ、そこからプロレス界に本格参戦。新日本、NOAH、プロレスリング・マスターズで活躍してきた。

青柳さんのご冥福をお祈りして、生前の2014年に週刊プロレスで語っていた半生を紹介。第5回目はプロレスラーとしての活躍について。

        ◎

青柳の人生は転がるようにプロレスへと導かれていく。パイオニア戦志と関係の深かった新日本にも参戦。1990年6月12日には福岡国際センターで、獣神サンダー・ライガーと異種格闘技戦で対戦してからは、定期的に大舞台で試合が組まれていくようになる。

「ライガー選手は日本のジュニアで一番強いと思ってたから光栄でしたね。ホントに強かった。あの試合でボクの名前もさらに上がったし、ドクターストップで負けて悔しかったけど、すっきりしましたね」

それから門下生の齋藤彰俊も新日本に上がり始め、越中詩郎や小林邦昭らと激しい抗争を展開。最終的には誠心会館の看板を懸けることにもなり、プロレスと空手の異種格闘技戦は、異様な盛り上がりを見せた。

「ボクはその時、新日本の契約選手だったから最初、どっち付かずだったんですよ。自分の誠心会館が新日本とケンカしてたからどうしようかなと思いました。もどかしかったです(笑)。当時、誠心会館は大ヒールでしたからね。まぁ、でも、いろんなことがあって、新日本を辞めてもいいから誠心会館に戻ることに決めたんです。ウチの看板取られて、勝って取り戻して、越中と小林が新日本に反旗を翻して…」

紆余曲折あり、血で血を洗う抗争の果てに越中らと結託した青柳は、伝説的ユニット・平成維震軍の一員としてセルリアンブルーのマットで活躍していった。その後もWAR、新格闘プロレス旗揚げ、WWF(現・WWE)マニアツアー参戦、東京プロレス、レッスル夢ファクトリーなどプロレス界を渡り歩き、2000年10月からNOAHを主戦場としている。

2012年11月には、長年の空手道における文化教育活動が認められ、東久邇宮文化褒賞を受賞。2013年1月にはリング上から1998年頃から患っていた網膜剥離が悪化し、9度目の手術を終えて左目が完全に失明したことを告白。空手家としては40年、プロレスデビュー25年が過ぎていた。

「大仁田と対戦して、まずボクの人生が変わって、新日本でまた大きく変わった。アマチュアがプロの世界に入っていったことがすごいこと。新日本って大きな母体の中で闘っていくことなんて考えられなかったじゃないですか。昔は新日本と全日本しかなかったわけですからね。

中学校の時に思ったプロレスラーになりたいって夢っていうのが実現したんですよ。形は変わりましたけどね。だから、中学校とかで講演する時にいつも言ってるんですよ。夢はすべて叶うことはないかもしれないけど、ずっと持ち続けていれば近いことはできるんですよって」

プロレスラーになりたいという夢は完全には叶っていないかもしれない。しかし、プロレスのリングで空手家として闘ってきたことは青柳にとって、自分の人生そのものと言っていい。

「ボクはこれからもプロレスラーじゃなくて、空手家の青柳政司として一生打倒プロレスでやっていきます。オレの蹴りでプロレスラーをもっともっと倒してやりますよ!」

青柳さんの現役ラストマッチとなったのは2021年8月15日、FMWE大阪大会。リングを降りれば、素晴らしい人格者として誰からも慕われていた。謹んでご冥福をお祈りいたします。
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