ノーTV、選手わずか6人という手薄な陣容で旗揚げした新日本プロレス。後発ながら日本テレビがバックにつき、NWAへの加盟もすんなり認められ、外国人ルートも確保できたうえでスタートしたのに加え、百田家から力道山ゆかりのチャンピオンベルトを寄贈されて日本プロレス界の本流をイメージづけた全日本プロレスとは何もかもが対照的だった。1年後に坂口征二らが合流してNET(現・テレビ朝日)での定期放映を取りつけた新日本は、大一番に特別レフェリーを起用することで権威づけを狙った。 昭和のプロレスファンなら、新日本の特別レフェリーとして真っ先に頭に浮かぶのがレッドシューズ・ドゥーガンだろう(当時の表記はズーガン)。元警察官でプロレスラーとしても活躍。その後、レフェリーに転向して、ロサンゼルスのプロレスの殿堂、オリンピック・オーデトリアムで数々の大一番を裁いた。その中には、力道山vsフレッド・ブラッシーのWWA世界ヘビー級戦も含まれている(1962年3月28日=現地時間、力道山王座奪取。同年7月25日=同、力道山が流血に追い込まれてのレフェリーストップ、試合放棄負けが宣せられて王座移動の試合)。初来日は日本プロレス、ブラッシーから力道山に王座が移動した直後の62年4月だった。
新日本への初来日は73年10月。“世界最強タッグ戦”とうたわれたアントニオ猪木&坂口征二vsルー・テーズ&カール・ゴッチを裁いている。また同年12月に再来日して、ジョニー・パワーズvs猪木のNWF世界ヘビー級戦のレフェリーも務めた。
その後も猪木vsビル・ロビンソン(75年12月)、猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント(78年5月、第1回MSGリーグ戦優勝決定戦)、猪木vsボブ・バックランド(78年6月、60分フルタイム)、猪木&バックランド組vsスタン・ハンセン&ハルク・ホーガン組(80年12月、第1回MSGタッグリーグ戦優勝決定戦)などを裁いている。
猪木がバックランドに勝利してWWFヘビー級のベルトを巻いた一戦(79年12月1日、徳島市立体育館)も、ドゥーガンがカウント3を叩いている。
活躍の場はリング上だけでなく、ホーガンの出世作ともなった「ロッキー3」でも、ロッキー・バルボアvsサンダーリップスの異種格闘技戦のレフェリー役で登場している。
新日本が初めて特別レフェリーを仕立てたのはまだノーTV時代の72年10月4日、蔵前国技館でおこなわれた猪木vsゴッチの実力世界一決定戦。旗揚げ戦に続く2度目のシングル対決で、猪木がリングアウト勝ちで勝利。ストロングスタイルの一戦を目の当たりにしたレフェリーのテーズが、翌年の世界最強タッグ戦出場、3年後の猪木との一騎打ちにつながっていく。
“昭和の巌流島”とうたわれた猪木vsストロング小林(74年3月19日、蔵前国技館)では、清美川が特別レフェリーに起用された。
大相撲を引退後、53年にプロレスに転向した清美川は、同年に開催された日本プロレスの旗揚げシリーズに参加。その後、国際プロレス団を経て海外へ。70年に国際プロレスに凱旋帰国。当時は欧州マットを主戦場にしてしており、国際プロレスとのパイプ役を務めた。欧州武者修行中の小林と接点があったことからレフェリーに起用された。
また同年12月12日の再戦ではコシキ・ジーンが特別レフェリーを務めた。元レスラーで現役時代はコルシカ・ジーンの名でテキサスやシカゴで活躍。その後、フロリダ地区でレフェリーを務めていたことからゴッチの推薦を受けた。またいち時期、小林がフロリダ地区に転戦していたこともあって接点があった。
大物日本人対決が人気を博した新日本は、さらに猪木vs大木金太郎を実現させた。その際、レフェリーに起用されたのが両選手にとって大先輩にあたる豊登。旗揚げ戦で現役復帰して猪木をサポートしたが、「テレビがつくまで」の約束通り、坂口が合流するのと入れ替わりに新日本を去った。生来のギャンブル好きからその後、生活に困窮していたこともあって、新日本サイドが援助する意味もあって起用された。(この項、つづく)
橋爪哲也