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2023-03-04

NOAH3・9後楽園で引退する原田大輔がプロレスラーになるまで【週刊プロレス】

3月2日、NOAHが原田大輔の引退を発表。首の負傷でドクターストップとなり、3・9後楽園ホール大会の小峠篤司戦(1分間のエキシビションマッチ)を最後にリングを降りる。プロレス生活17年。原田がデビューするまで道のりを中心に振り返る。


原田は精肉店の3兄弟の三男として生まれた。3歳違いの長男、2歳違いの次男の後ろにいつもついて遊んでいたのだが、プロレスに触れることになったのも兄の影響。小学校高学年の頃、長男がやっていた家庭用TVゲーム「新日本プロレス闘魂列伝」がきっかけだった。

それから深夜帯に放送していた「ワールドプロレスリング」「全日本プロレス中継」を親戚に録画してもらい、週刊プロレスをはじめとする雑誌も購入。クラスメイトにプロレスファンはいなかったが、休み時間になると強引にプロレスごっこに引き込んでいたという。

小学校卒業文集には「将来の夢はプロレスラー」と書いた。中学卒業時にはプロレスラーになるためにレスリング部のある高校への進学を決意。公立高校だったので部員は少なく、団体戦に出場するギリギリの人数だったので、原田はベストである66kgから階級を下げて55kgまで減量することも多かった。

高校3年時には大阪府大会で優勝を果たす。しかし、直後の全国大会は「調子に乗ってました。簡単に勝ち進めるだろうってナメてました」と慢心で臨み予選敗退。京都の大学へ推薦入学の話が舞い込んだのだが、プロレスラーになりたいという思いを断ちがたく、なんと面接当日に推薦を断ってしまう。

そこまでしたのだからプロレスラーにならないと示しがつかない。原田は高校在学中から大阪プロレスのプロレス教室に通い始め、そのまま入門。当時の合宿所組にはのちのデビュー戦の対戦相手であり、“桃の青春タッグ”の最高のパートナーであり、永遠のライバルでもある小峠篤司がいた。

原田の寝床は台所。同期がいなかったので、すべての雑用をこなさなければいけなかったが、2カ月ほどで後輩が4~5人入ってきたため、すぐに解放されたのはラッキーだった。

プロレスラーになるための過酷なトレーニングを乗り越えた原田は2006年8月5日、大阪のデルフィンアリーナにおける小峠戦でデビュー。7分38秒、テキサス・クローバー・ホールドで敗れたが「全然緊張しなかった」と強心臓ぶりを見せていた。

それからは小峠との“桃の青春タッグ”で頭角を現し、2013年にNOAHに移籍するとジュニア戦線でエースとして活躍。激情的なファイトで人気を博したが、今年3月2日に首の負傷によるドクターストップで引退を発表。NOAH3・9後楽園大会では1分間のエキシビションマッチで自身のキャリアに欠かすことのできない小峠とラストマッチをおこなう。

NOAH3・9後楽園大会は大会当日午後6時よりインターネットTV「ABEMA」で無料生中継される。少年時代からの夢をかなえてプロレスラーとなり17年間全力で走り続けてきた原田の最後の雄姿、しかとその目に焼きつけてほしい。

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新日本プロレス50年物語第2巻 平成繁栄期 | 週刊プロレス powered by BASE

四六判並製/320ページ『新日本プロレス50年物語』シリーズとは?新日本プロレス50年の壮大な歴史を3つの時期に分け、それぞれの時代をよく知る3人の筆者が三者三様の視点から出来事の背景やドラマを掘り下げる。歴史を読む!全3巻。『新日本プロレス50年物語 第2巻 平成繁栄期』の内容は?東京ドーム初進出の1989年(平成元年)から暗黒期・模索期の2008年(平成20年)まで。『東京スポーツ』紙で1990年代~2000年代初頭にかけて新日本担当記者として巡業に帯同し、さまざまな出来事を目撃・取材してきた筆者が、当時の取材メモを片手に、平成新時代の新日本の繁栄ぶりと転落の背景を記す。各年ごとの「解説」と、各年をより深く理解するための「キーワード集&こぼれ話」の2つのコーナーを通じて、平成新日本の豊富すぎる話題の数々にスポットを当てる。【第2巻のもくじ】1章 ドーム、G1、「1・4」!(1989年~1992年)・1989年(平成元年):プロレス界前人未到の領域「東京ドーム」ならではの苦労・1990年(平成2年):全日本との歴史的対抗戦のみならず歴史的名言の数々も生んだ「2・10東京ドーム」伝説・1991年(平成3年)「G1 CLIMAX」が初開催と同時に一大ブランド化! ・1992年(平成4年):心配の声をよそに、「1月4日」の東京ドーム開催に踏み切る! 2章 平成新日本らしさ、爆発!(1993年~1996年)・1993年(平成5年):東京ドーム、福岡ドーム、G1、両国7連戦…平成新日本らしさが満開! ・1994年(平成6年):天龍に敗れた猪木が、「引退」への一足を踏み出す・1995年(平成7年):UWFインターとの対抗戦が、窮地の新日本を救った!・1996年(平成8年)IWGPヘビー級王座がUWFインターに流出! 橋本、武藤、蝶野それぞれの戦い3章 さらば、「平和と繁栄の90年代」(1997年~2000年)・1997年(平成9年):蝶野&武藤の「nWo路線」と小川&猪木の「プロ格闘技路線」が並走・1998年(平成10年):猪木引退! 平和な90年代は終わり、混迷の時代が始まった・1999年(平成11年):小川〝暴走事件″の混乱と〝劇薬・大仁田″の副反応 ・2000年(平成12年):全日本、UFO、橋本…との複雑な関係の中で4章 混乱・混とん、ここに極まれり!(2001年~2004年)・2001年(平成13年):武藤が全日本のマットで大活躍! ボーダーレスに活躍する選手が続出・2002年(平成14年):武藤、長州、健介…平成黄金時代を支えた人材が続々と団体を去る! ・2003年(平成15年):プロレス路線、格闘技路線、IWGP王座、NWF王座…価値観が乱立する混とん状態・2004年(平成16年):強権発動の猪木、出戻りの長州が新日本マットを蹂躙!第5章 ユークス新日本、再建の時は来た!(2005年~2008年)・2005年(平成17年):猪木がユークスに持ち株を売却! 〝猪木新日本″が終焉・2006年(平成18年):退団者が続出! 藤波の退団は業界外にも大きな衝撃を与える・2007年(平成19年):ユークス新体制下、「無理に背伸びしない団体」に転換・2008年(平成20年):中邑がIWGPヘビー級ベルト騒動をきっちりと鎮火!

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