close

2023-06-12

スタン・ハンセンが京都でトークショー「新日本から全日本に移ったが、それは猪木が嫌いだからとか恨みがあったわけじゃない。あくまでビジネスとして移籍しただけ」【週刊プロレス】

スタン・ハンセンさん

全ての画像を見る
6月11日、JR京都駅近くのイオンモールKYOTOで「スーパースター プロレストークバトル」が開催された。

Sareee、中西学に続いて第3部に登場したのがスタン・ハンセン。金髪もすっかりグレーに変わって年齢を感じさせた“不沈艦”だが、ファンにすれば、あこがれのレスラーであることは変わらない。会場に「サンライズ」の曲が流れると、集まった約200人のファンから自然発生的に「ハンセン」コールがわき起こる。ハンセンもロングホーンを突き上げてそれに応えた。

やはりまず聞きたかったのは、昨年10月1日に亡くなられたアントニオ猪木のこと。

「アメリカにいる時にその知らせを聞いた。とてもショックを受けた。私だけでなく、アメリカのプロレス界も大きなショック、悲しみに包まれた。一番最初はニュースで見たと思う。アメリカでも大きく報じられたからね。そのあと、日本の記者から連絡があった。ミスター・イノキはジャイアント・ババと並ぶ歴史的なトップレスラーだったし、私がニュージャパンで活躍する機会を与えてくれた。ニュージャパンからオールジャパンに移ったが、それはイノキが嫌いだからとか恨みがあったわけじゃない。あくまでビジネスとして移籍しただけだ。イノキと同じ飛行機で日本に来たこともあったよ」

猪木との試合に関しては「あまりにも多く闘ったし、どの試合が一番印象に残ってるかなんて言えないよ。とにかくイノキとの試合は一瞬たりとも気が抜けなかった。ちょっとでもスキを見せたら攻撃してくる。毎試合、それまでと違った動き、それも私が思いつかないような動きでね」と振り返った。

猪木、馬場、そしてジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力、藤波辰巳(辰爾)、さらには三沢光晴、川田利明、小橋建太と、世代を超えトップクラスと闘い続けたハンセン。「ライバルと言われても1人には絞れない。その時その時に異なる一番のライバルがいた。それが時にはイノキだったし、時にはババだった。ジャンボの時期もあったし、テンルー(天龍)、チョーシュー(長州)の時期もあった。フジナミの時期もね。さらにはミサワ、カワダ、コバシだったりね。とにかく大勢の素晴らしいレスラーと闘う機会に恵まれていた」と語ったが、その中で藤波がまだ現役を続けていることに関しては、「ぜひとも頑張ってほしい」とエールを送っていた。

一方、多くのレスラーとタッグを組んできたが、「間違いなくブルーザー・ブロディがベストパートナーだ」と語ったハンセン。「彼には『現地の食事に慣れろ』と言われた。その言葉通り、日本に来たらスシやソバ、ヤキニクなどを食べるようにした。それによって日本食が好きになったし、日本も好きになった」
 
その後、会場に集まったファンからの質問コーナーに。

やはり飛び出したのが、「もしブロディとシングルマッチをおこなったら、どんな試合になり、どっちが勝ったか?」というもの。「その質問は何度もされてきたけど、答えられない」と前置きしたうえで、「一度もシングル対決したことない(フランク・グーディッシュ時代に一度だけシングル対決している=1974年12月9日、ルイジアナ州ローレンジャー)。彼はベストフレンドでありベストパートナー。もし闘えば激しい試合になったことは間違いないと思うが、今にして思えば実現しなくてよかったと思う。みんなの頭の中には自分とブロディは常に組んでいるというイメージがあると思う。もし闘ったなら私たちが切り離されるというイメージになってしまっていただろう。それもあって、実現しなくてよかったと思う。自分でも“どうなったんだろう?”と思うよ。だけど実現しなかったことで、みんな頭の中でいろいろと想像してくれる。断片的にでも私たちの闘いを見せなかったことで、それはそれぞれ違ったものになるだろう。みんなが同じような試合を想像することはない。どっちが勝つかもね。答えが一つじゃないということが、答えじゃないかな」と語った。

また対戦相手にケガをさせてしまったが、結果的にハンセンの出世試合となったのがブルーノ・サンマルチノ戦だった。その一戦に関しても、「彼は本当に紳士の中の紳士でした。彼は本当の意味で強くて、完璧な男。70年代、80年代、ブルーノ以上の人気を誇るレスラーはいなかった。腕力は半端なかったし、スピードも速かった。そしてなにより、何一つ文句を言う男ではなかった。どんなにつらいことがあろうとも、彼は泣き言一つ言わない。私がボディースラムで首を骨折させてしまったけど、その時も何一つ文句を言わなかったし、誰に対しても決してそういう態度を崩さなかった。私がダラスでおこなわれた『レッスルマニア』でWWEの殿堂入りした際(2016年)、私の家族と会いたかったってブルーノが来てくれた。そういう素晴らしい人」とブルーノの印象を語った。

そして最後の質問は、第2部を終えてトークショーを観覧していた中西学からのもの。“主夫”としてユミ夫人を支えていることを伝え聞いて、「得意料理は?」と尋ねた。

「日本料理はワイフに任せている。週1回必ずするのがパスタ料理。トマトソースやガーリックで味付けしてね」と答えたが、トークショー後にユミ夫人に尋ねたところ、「本当に料理しますよ」とのことだった。最後に集まった超満員のファンに感謝を述べてから、天高くロングホーンを突き上げて「Youth!」。そして「ハンセン」コールの大合唱がわき起こった中、ステージを下りた。

※文中敬称略

橋爪哲也

加入月0円! 週プロmobileプレミアムはバックナンバー1500冊以上から最新号まで読み放題!!

送料無料通販!

新日本プロレス旗揚げ50周年記念シリーズ③70年代編 不滅の闘魂伝説(B.B.MOOK1583) | 週刊プロレス powered by BASE

70年代プロレスとは何か?創立50周年を迎えた新日本プロレスの原点がここにある。1972年3月6日、東京・大田区体育館で旗揚げ。当初はテレビ放映も大物外国人のブッキングルートもなく、苦戦を強いられた。だが、翌73年に坂口征二が合流し、NETテレビ(現テレビ朝日)が中継をスタート。そこからは右肩上がりの成長を遂げていった。アントニオ猪木が前面に立って闘いを繰り広げた70年代の新日本を大特集する。【CONTENTS】COVER STORY◎アントニオ猪木「ジャイアント馬場を超えるために」 藤波辰爾インタビュー「明日を夢見て」CLOSE-UP◎カール・ゴッチ「旗揚げ1年目の大黒柱」 SPECIAL REPORT◎坂口征二と新日本の夜明け(文・流智美) アントニオ猪木名勝負セレクション1972-1979(vsカール・ゴッチ&ルー・テーズ、vsジョニー・パワーズ、vsストロング・小林、vs坂口征二ほか) 夢とロマンの異種格闘技戦PLAY BACK 1976-1980 SPECIAL REPORT◎ドラゴンブームとは何か? 新日本プロレス70'sクロニクル 70's外国人列伝~タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ボブ・バックランドほか 70年代新日本 忘れじのシリーズ~1975年のワールドリーグ戦、1979年の闘魂シリーズ 船橋慶一氏インタビュー「NETテレビ中継開始の舞台裏」 1972-1979新日本プロレス年表【注意】発送後の返品・返金は原則不可とさせていただきます。送料は無料ですが、通常2~4日でのお届けとなります。また、事前に購入されても発売日にお届けすることは、お約束できません。ご了承ください。

shupuro.base.shop

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事