ガンバレ☆プロレス最高峰のタイトル、スピリット・オブ・ガンバレ世界無差別級王座は現在、プロレスリングBASARA・木髙イサミが保持している。7・9大田区総合体育館のビッグマッチで渡瀬瑞基を破り第5代王者となり、8月6日には女子のYuuRIを退け初防衛に成功。
直後にガンプロ所属&レギュラー参戦選手たちがエプロンへ上がり挑戦を迫った。その中から、2度目の防衛戦の相手となったのは冨永真一郎だった。
過去に2度同王座へ挑戦し、ベルト奪取にはいたっていない。だが今回に関しては、チャンピオンがイサミという点で特別な意味が付随してくる。
ガンプロ所属ではなく“最強の素人”の触れ込みで参戦する冨永は、かつてイサミがけん引するユニオンプロレスに入団した。しかも、かなり将来を嘱望される存在だった。
学生プロレス(真壁刀義、HARASHIMA、ガッツ石島らと同じ帝京大学)で三冠王者に君臨した“実績”から、鳴り物入りのルーキーとしての位置づけ。デビュー戦(2011年1月3日、後楽園ホール)の相手が竹下幸之介同様、現WWEスーパースターのサミ・ゼインことエル・ジェネリコだった事実一つをとっても、それを物語っているだろう。
にもかかわらず冨永は1年後の契約更改で更新せず「任期満了」という、いたって機械的な発表のみをもって業界から姿を消した。デビューした年の7月より腕の骨折による長期欠場を続けており、そのままフェードアウトする形だった。
“ゆとりジェネレーションX”がキャッチフレーズだったため「やっぱりな」と受け取った者もいたと思われるが、その退団を残念に思う関係者やファンは多かった。ただ、それ以上詮索するようなことはせず、ケガにより心が折れたとの認識でいつしか忘れられていった。
内情を明かすと当時の冨永は大学6年生で、まずは卒業を最優先させる立場にあった。学生とプロレスラーに加えアルバイトまで並行するとなると、精神的にも時間的にも厳しい。生活する上での経済的な現実が「もうこれ以上は無理」と自分を追い込んだ。
「(ナオミ)スーザン代表にやめると伝えた時は正直、心の重荷がとれたと思いました。もちろんプロレスが嫌いになったわけではなかったんですけど、これは今のシンドさを解消しなければ卒業もできないとしか考えていなかった。
今振り返ると学プロの延長線上で、同じような気持ちから抜けきれぬままプロのリングに上がっていたんだと思います。まだ学生だったこともあって、プロ意識も心構えも持てずじまいで。だから、やめるというよりいったんお休みしようぐらいの意識で後悔もなくて、これで卒業して就職すれば定期収入が得られる。地に足をつけてケガが治ったら、もう一度できるだろうぐらいの考えでした」
小学校の卒業文集でプロレスラーになりたいと書いた冨永は、学プロの時点でその夢をかなえたと思った。アマとプロの違いこそあれど、リングに上がり自分のパフォーマンスを四方から見てもらうことに関しては同じだったからだ。
ジェネリコとのデビュー戦でさえ、夢の延長線上だから緊張もなくやれた。ステージがより大きなものになったとの理解こそあったものの、継続させていく上での姿勢を養うまでにはいたらなかった。
学プロでは留年しても4年間で引退するのがルールだった。これといってやりたい仕事もなく、体力的に伸び盛りの年齢でリングを降りることに未練を拭えずにいたタイミングで、高木三四郎から「プロになりたいか?」と言われた。
こうした経緯がありながら、結果的にユニオンを去った冨永。当然、リクルート活動は一切しておらず見かねた就職課から「今、ウチが職員を募集しているよ。受けてみたら?」とアドバイスされた。
本人は「試しに受けてみるか」ぐらいの気持ちだったが、面接した人事の偉い人がプロレス好きで「天龍(源一郎)さんと対戦したことがあります」と話すや、途端に食いついてきた。そのままトントン拍子で採用が決まった。
「対戦といっても触れた程度だったんですけど(2011年5・4後楽園。天龍&○入江茂弘&澤宗紀vs菊地毅&妻木洋夫=現・FUMA&冨永●)、天龍さんのおかげで就職できたという」
母校の職員となり社会人としての一歩を踏み出した冨永。腕のケガも治ると、試合に出るわけでもないのに高田馬場の新宿スポーツセンターにいって、畳の上で受け身をとるようになる。そこへ徐々に学プロ時代の仲間たちが集まってきて、じゃあ団体をやろうと盛り上がった。
それが現在の所属先となる社会人プロレス団体・CWP(Come on Wrestling Party=発足当時はCOWPER)。DDTやマッスルに出場経験のある軍団ひとりやクズ・ハヤシらもメンバーだ。
本業で収入を得ながら、好きなプロレスをやれるのは理想的な環境だった。CWPを始めた翌年の春、ユニオン時代の先輩・大家健が団体を旗揚げする。これが冨永の運命を変えた。
「ガンバレ☆プロレスを旗揚げするっていうのを見て、大家さんの力になりたいと思ったんです。これはほかのユニオンの皆さんもそうなんですけど、とにかく温かかくて優しくて。大家さんにはやめたあともよく声をかけていただいていたんです。大家さんって、この人のために!って思わせるものがあるじゃないですか。
なので最初は、試合に出るとかではなくもぎりでもいいから手伝わせてくださいって言ったんですけど、気がついたら旗揚げ戦でリングに上がっていました。最初のうちは、ガンプロも今ほど興行数が多くなかったんですけど少しずつ増えてきて、私もしれっと上がり続けているという」
その間、大学職員の仕事は2年でやめた。実家のある福岡県に新キャンパスを設立するため異動を命じられたからだった。出張では3ヵ月間ほどいっていたが、さすがに転勤となるとプロレス活動ができなくなる。クッションで一社に就職したあと、転職サイトを検索して見つけた企業へ潜り込む。
「社員の中には音楽だったり文化美術系であったりと、別の活動をやる人たちはいるんです。私にとってのそれがプロレスに当たるわけで、位置づけ的には副業ではなくあくまでもボランティア活動。“最強の素人”を名乗るのもそのためです。
あとは、CWPを大切にしたいというのがあって。自分たちで会場を借りて選手を集めて、出身大学も務め先もバラバラの人間たちで続けて去年が10周年だったんです。長くやるうちに仕事の忙しさや家庭を持つ現実、子どもができたなどで歩調が合わなくなってくる。そこで指揮を執る立場の自分が落としどころを見つけて、今の環境の中でやれることを足並み揃えて形にしていこうと」
ユニオン時代に味わった先輩や仲間たちの温かさをガンプロでも感じるからこそ、冨永はこのリングへ上がり続ける。その一方で所属とならないのは、社会人プロレスへの愛着と、あくまでも“素人”であることのこだわりなのだ。
冨永のプロレス遍歴は、学プロがスタートではなかった。高校を中退したあとKAIENTAI DOJOに入会金と月謝を払い入門している(梶トマトの1期上)。ただ、3ヵ月の満期になると社会を経験したことで中卒ではダメだと思い、当時の実家・富山県へ戻り大検を受けた。
高校中退→K-DOJO→大学で学プロ→ユニオン→大学職員、そして現在は社会人とプロのリングを両立――実に特異な道程を、冨永は歩んできた。
何度となく回り道をしてきたのかもしれない。それでもその一歩一歩は、かつての先輩である木髙イサミへとつながった。
「ユニオンの時はイサミさんと絡むことがなくて、今年に入って2度(4・22王子&5・5後楽園)、少しですが触れたんですけど渡瀬さん、高岩(竜一)さんと過去2度このベルトに挑戦した時とは異なるベクトルの強さを感じたんです。それはちょっと形容し難いんですが…“最強の後出しじゃんけん”って言えばいいのかな。技術的なもの、実戦経験から来るんでしょうけど、何をやっても対応されてしまう怖さを短い時間で感じました。
それは過去の関係性にもよるんでしょうね。練習生の頃からセコンドで見ていてすごいなと思っていた印象が、まず根底にあるわけですから。でも本当なら、自分が最初にいきたい(挑戦したい)ぐらいだった。ガンプロ所属ではないけど、私にとっても今のイサミさんは外敵です。イサミさんほどのプロレスラーだったら、私が勝っても『プロが素人に負けた』とはならず『素人がプロに勝った!』という偉業になると思うんです」
冨永は、小説『泣き虫しょったんの奇跡』を穴が開くほど読んでいる。それは実在する棋士・瀬川晶司がモデルで、奨励会入りしながら年齢制限で退会しサラリーマンになったものの、アマチュアの強豪に成長してプロの公式戦で勝利を重ね、ついには特例でプロ棋士に認められる物語だ。
その作品に自身を投影し「俺にもこういう生き方ができるのでは」と思いながら、プロレスを続けてきた。もしも『泣き虫しんたんの奇跡』を製作するなら、チャンピオンの役どころにイサミ以上のふさわしい存在はいまい。
「そういうのもあって、素人がチャンピオンになった事実を刻みたいんです。素人だから後ろめたいのではなく、むしろ誇れるものにする。ハングリー精神といったものを持ち込まれるとちょっと弱いんですけど、私はデビューしてからビッグになりたいと思うことがないまま来ました。
大学時代、埼玉の田舎にあるネットカフェのビリヤード場にリングを組んで試合をやったんですけど、主催の方からいっぱい人が集まりますからと言われていたのに、フタを開けたらちっちゃい女の子が2人ぐらいしか来なかった。でも学プロはそれが普通で、学園祭でも10人の前なんて当たり前。1人でも見てくれるのであれば嬉しいという中でやってきた。そんな自分でも、体が続く限りプロレスを続けたいって思います」
現在の仕事は地味に一日中パソコンへ向かう日もあれば、肉体労働に従事する時もある。異動を断り、残業もプロレス活動から逆算して何時間までならできるといったように、好きなものを確保するのがすべての中心に据えられている。
人生において何度もドロップアウトを経験したのは確かだ。しかし純然たるプロだろうと素人だろうと、リングに上がれば痛くて辛いのは同じなのを承知の上で、こうして気持ちは離れずにきた。
場が変わっただけで、そこに関しては途切れていないのだ。ガンプロ9・2王子BASEMENT MONSTARのスピリット・オブ・ガンバレ世界無差別級選手権試合…冨永真一郎はユニオン時代の忘れ物へ向き合うとともに、何があってもプロレスを続けてきたことの“応え”と答えを、イサミとの闘いによってつかむつもりでいる――。
(文・鈴木健.txt)