小学4年でサッカーに区切りをつけてアイスホッケーの「実業団」を目指す。――小原選手、いや、もう「小原さん」ですね、駒澤高校(駒大苫小牧高)で27年前、将来有望な選手を集めて「ジェネレーションX」(日本アイスホッケー新聞)という連載をしたんですが、それに登場してくれた時が「出会い」だったと思います。今日は引退記念インタビューということで、よろしくお願いします。
小原 もう、そんなに長くなるんですねえ。今日はよろしくお願いします。
――まずは釧路でアイスホッケーを初めたころの話から始めましょうか。
小原 最初は美原小学校に入ったんですが、美原小がマンモス校だったこともあって、芦野小に転校したんです。その芦野小で2年からアイスホッケーを始めました。最初はサッカーと野球に興味があったんですが、まさにアイスホッケーに「ハマった」感じでしたね。小学4年でサッカー部とアイスホッケー部のどちらかに決めなければいけないときがあったんですが、ウチの父親がサッカーをやっていたこともあって、サッカーでプロを目指すのか、アイスホッケーの「実業団」を目指すのかとなったら、現実的にはアイスホッケーのほうがいいんじゃないかと。そこでアイスホッケー一本に決めたんですよ。
――中学は伝統校の景雲中へ。ただ、芦野小からは学区が違っていますよね。
小原 住所を親戚の家にして、越境して入学したんです。家から1時間かかりましたが、それを毎日、歩いて通ったんですよ。きっかけは、景雲中に内山朋彦さん(駒大苫小牧高-コクド-SEIBU-アイスバックス)がいたから。内山さんが新川小のころから、全道大会のテレビの中のスーパースターだったんです。高校で駒澤に行ったのも、やっぱり内山さんが行ったから。やはりテレビで高校の全道大会を見て、中学2年で「自分も駒澤に行きたい」と心に決めたんです。
――内山さんが3年で、小原さんが1年生。内山さんが2歳上ですが、内山さんはお父さんが校長先生だったこともあって、偉ぶったところのない好青年でしたね。内山さんが足を生かしたゴールゲッターなのに対し、小原さんはセンターとしてフィニッシャーにパスを出す、サッカーでいうところの「ファンタジスタ」でした。
小原 小さいころから、シュートよりもラストパスをする方が好きだったんです。冬のセントマ(釧苫=2月に行われていた釧路・苫小牧対抗戦。苫小牧の選手はトマセンと呼ぶ)に選ばれた時でも、割とギリギリまでパスを出さずにキーパーを揺さぶって、観客をあっといわせるのが得意だったんです。
――当時、釧路の飲み屋で、お客さんの1人が「小原は高校は駒澤に行くらしい」と言っていたのを聞いたことがあるんです。たまたまかもしれませんが、「釧路ってアイスホッケーの中学生の進路が飲みの話題になるんだ」と関心したことがあるんですよ。もともと「運上一美伝説」とか「小友坊伝説」とか、釧路の怪物の逸話にホッケーファンが沸いた時代が、間違いなくあったんですよね。
小原 本当に釧路はアイスホッケーに熱い街でしたね。それに、毎年のようにスターとなる選手が出ている時代でした。
――駒澤に入ると、小原さんは高校1年から主力として活躍しました。
小原 苫小牧から来た人には、負けられないぞという意地がありました。たまたま僕の同期が、釧路の中学から来た小川健太(西武鉄道)、松田圭介(元アイスバックス、SEIBU)、桶谷賢吾(現駒大苫小牧高監督)がいたんですが、「みんなで駒澤へ行こう」と話し合って決めたわけじゃなくて、それぞれ自分の意志で進学を決めたんですよ。だから各々で「俺は釧路から出てきたんだぞ」という覚悟があったように思います。
――小原さんが高校2年の時に「駒澤の1日」と題して取材をしたことがありました。朝のホームルームで小原さんと挨拶をした覚えがあるんですが、取材したのが「スペシャル」の日。月曜は陸トレを全メニューこなす日で、しかもその日は氷上まであったんですよね。私も鈴木司先生(当時監督。現在は総監督)に乗せられて演習林とか山王神社を走ったのですが、当時の駒澤は間違いなく、全国で一番の練習量だったと思います。
小原 もともと景雲中は、陸トレからいうと「中学版の駒澤」と呼べるくらい厳しいものがあったんです。それでも、駒澤の練習は想像を超えるくらいのキツさがありましたよ。
――高校2年の時にアジア・オセアニアジュニア(霧降)があって、日本は優勝。会場で選手が日本代表の応援団の人と大騒ぎしているのを見て、「長野五輪以降のアイスホッケーは小原さんたちが中心になっていくんだ」という時代の流れを感じました。
小原 ファンの人が、代表の試合もたくさん応援に来てくれる時代でしたね。当時は日本でいろいろ大会が行われていて、海外のチームと頻繁に試合をしていましたから。
――小原さんの故郷・釧路では小中学生がベンチにあふれるくらいの選手を抱えていて、高校は工業(釧路工)、江南、短付(釧路短大付。のちの釧路緑ケ岡、現在は武修館)が、それぞれ50人から60人の部員を抱えていました。ほかにも釧路北、釧路北陽、釧路東、釧路西、釧路高専でアイスホッケー部があった、活気のある時代でした。
小原 おかげさまで僕はインターハイで3連覇しているんですが、3年生だった年が思い出に残っていますよね。3月の引退試合で駒澤の同期が集まってくれたのですが、「やっぱり高校最後のインターハイが、一番印象に残る試合だったよ」と言っていました。
ソチ五輪予選(霧降)で日本を引っ張るも、健闘は及ばなかった。「アフター長野」の日本を引っ張る立場だったが、五輪の舞台はついぞ縁がなかった(2012年11月。写真・Getty Images)あたためてきた、海外でプレーする夢。タイミングが合わないことが多かった。――その後、早稲田大学に進みます。当初の予定である内山さんと同じ「駒澤からコクドへ」…という進路をシフトチェンジしました。
小原 高校からカナダのチームに行って1、2年プレーする条件で、コクドに入ることが決まっていたんです。当時は三浦浩幸さん(DF)がNHLにドラフトされたニュースもあって、海外へ行くために少しでも可能性の高いところへ…というのが僕の胸の中にあったんですよ。ところが高校3年の時に「来年からカナダのジュニアチームで外国人枠がなくなるらしい」という情報が入ってきた。このタイミングで厚い選手層のコクドに入ったところで、試合に出られないんじゃないかという可能性があったんです。「大学へ進んだほうが日本代表に選ばれるチャンスがある」と考えて、早稲田進学を選んだんですよ。勉強もできないほうではなかったので。
――早稲田の4年生でECHL(イーストコースト・ホッケーリーグ)に旅立ったわけですが、大学時代の思い出は。
小原 早稲田はホッケーに打ち込める時間をつくれた、そういう時代でした。トップリーグに行くための準備期間。そんな時間だったと思います。4年生は大学リーグこそ出場しませんでしたが、そんなに単位も残っていなくて、卒業はもう確定していました。
――早稲田で1学年下の西脇雅仁さん(FW、元クレインズ)とのコンビプレーが忘れられません。2人がパス交換をしてОゾーンに入ると、見方も敵も、周りの選手がついていけないんです。リンクには12人の選手がいるのに、小原さん、西脇さんの2人がより輝いて見えた。大学リーグには、ほかにもいい選手はいっぱいいたはずなんですが。
小原 西脇も高校まではセンターだったんですが、監督の中野浩一さんに「センターばかりこだわっていると試合に出られないよ」と言われたんです。そのときに僕が「だったら西脇をウイングとして僕につけさせてください」と言ったんですよね。実際、西脇はウイングをやるようになって、株がドーンと上がりましたよ。
――大学を卒業してコクドに入社しましたが、小原さんはずっと海外でプレーしたいという希望を持っていました。
小原 そうですね。ただ僕の若いころは「社員選手」という立場だったんです。SEIBUの2008-2009年に僕は「契約選手」になって、ドイツのトップリーグにトライアウトを受けたのですが、その時もタイミングが合わなくて契約できなかった。ほかの年でも、そういうアクシデントやケガがあったんです。海外でプレーできるのであれば、本当に給料なんてどうでもよかったというか…。これがもし今の時代だったら、自分の意志がもっと尊重されて、また少し違っていたんでしょうけどね。
――アイスホッケーの中心だったコクドが、西武鉄道と一緒になってSEIBUプリンスラビッツになり、ついには2008-2009シーズン限りで廃部になりました。ウサギのマークが少年の憧れだった「国土計画」がこういう結末を迎えるとは、夢にも思わなかったというのが正直なところです。
小原 噂では聞いていましたが、まさか…と思いました。「さすがに(廃部は)ないんじゃないか」と選手も気にはしていたんです。あの日は確か試合後に(2008年12月17日、ハルラ戦)選手が集められて、会社から廃部の話を聞いたんですよ。
――宮内史隆さん(DF)、駒澤と早稲田で小原さんの先輩だった神野徹さん(FW)さんも、4月の世界選手権で日本代表に選ばれてそのまま引退だったんですよね。折しも2008年は日本の経済が不景気になって、アイスホッケーを選ぶのか、はたまた仕事を選ぶのか、悩んだ選手も多かったと思います。
小原 合宿所に集まって、SEIBU組が話をしたんです。キャプテンの鈴木貴人さん(のちにアイスバックス)が「モチベーションが下がったまま日本代表に行くことは絶対にできない。今まで通りと変わらず、日本のアイスホッケーのためにやろうぜ」って。あの光景は何年たっても忘れられないですね。
平昌五輪も予選突破ならず。3度出場の五輪予選は悔しさだけが残った(2016年の五輪予選前のヨーロッパ遠征。写真・Getty Images)忘れられない満員の中でのプレー。釧路が一番熱い時期に優勝できた。――コクドは狙っていた選手が高校から大学に進学すると、リクルーティングをいったん白紙に戻すチームでした。小原さんは早稲田に進んで、卒業後はやっぱりコクドを選んだわけですが、コクドの廃部後は、故郷の日本製紙クレインズに活躍の場を移しました。
小原 大学時代、クレインズからも勧誘があって、伊藤雅俊さん(FW)が外国人、日系人と活躍しているのを見ていたんです。「もしかしたらコクドよりもクレインズのほうがチャンスが多いのかな」と悩んだ時期もあったんです。SEIBUが廃部になって、あのタイミングで再びクレインズが僕にオファーをくれたんですよ。それと、やっぱり西脇の存在です。西脇と仲がいいのは皆さんも知っているので、他のチームは「小原はどうせクレインズに移籍するんでしょ?」と敬遠していたようです(笑)。
――日本製紙クレインズでの思い出は。
小原 地元のファンの前で優勝できたというのは本当に貴重な経験でした。生まれた街、アイスホッケーに出会えた故郷で、一番熱い時期に立ち会えることができた。あの2013-2014シーズンは特別な年でしたよ。確かあの時のプレーオフで、釧路の観客数の新記録をつくったんですよね。
――この年のプレーオフ最終戦の観客数は釧路アイスアリーナのレコードでもあって、「3120」の数字は記念としてリンクに飾ってありましたよね。階段も通路も人がいっぱいで、どこが導線かもわからないくらいで。
小原 クレインズがそれまでに3度優勝しているんですが、2013-2014シーズンが釧路で初めての優勝だったんですよ。
――クレインズはアジアリーグ初年度の2003-2004が霧降、そして2006-2007、2008-2009が東伏見での優勝でしたからね。今から思えば最初で最後の釧路での優勝が、2013-2014シーズンだったんですよね。小原さんが移籍初年度の2009-2010シーズンも印象深いです。第5戦でハルラがサヨナラで勝って初優勝したのですが、延長戦で小原さんが膝を痛めて、あまりの激痛で泣いていたんですよ。いつも落ち着いている小原さんからすると、本当に珍しい光景だったと思います。
小原 あのプレーオフは、第4戦で西脇が終了2秒前に同点ゴールを決めて、延長はダーシ・ミタニ(FW)のサヨナラゴールで勝ったんです。第5戦で2日連続の延長に入ったのですが、延長で僕は相手のスケートの刃が刺さって、そのままボードに突っ込んだんですよ。それでも試合が止まっていないから、試合に出ざるを得なかった。結局、膝のお皿が割れてしまって、その年は代表も辞退しなきゃいけなくなったんです。
――2014-2015シーズンからは、王子イーグルスでプレーします。
小原 2014-2015シーズンは王子の方針で日本人のみで戦う年だったんです。まさか王子がオファーをくれるとは思っていなくて、交渉解禁の日に連絡があったんですよ。その時はクレインズに残る選択肢もあったし、DEL(ドイツのトップリーグ)に行くという話もあった。ドイツの受け入れチームが、僕を第1セットで使ってくれるのか、それとも3つ目、4つ目で使うのか、悩んだ末に行くのをやめたんです。僕が若かったなら迷わず行っていたと思いますが、もう(当時は)32歳。若いころの発想は、残念ながらなかったかもしれませんね。
――小原さんのキャリアでは王子の6年が最長の在籍期間でした。駒澤での3年間以来となった、苫小牧での思い出は。
小原 移籍初年度の2014-2015シーズンに久慈修平と高橋聖二がウイングで1年間、試合に出たんです。それで61ポイント(18ゴール、41アシスト)とキャリアハイの記録をつくった。これは自分の自信になりました。外国人の手を借りないでつくった記録ですからね。
世界選手権には10回の出場を果たす(2017年の世界選手権ディビジョンI・グループBイギリス大会。写真・Getty Images)41歳になって未知のチーム東北へ。かつての仲間の存在が大きかった。――2020-2021シーズンから2年間、日本製紙から「ひがし北海道クレインズ」となったチームに移籍しました。全日本選手権では2年間とも優勝していますが、経済的に不安要素もあったと思います。
小原 自分のモチベーション的に冷静に保ちながらやっていくのが、正直、大変でした。2022-2023シーズンは契約しようと思えば契約できたんですけど、「もし来年も(給料未払いの状況が)続くようだったら、どうしよう」と思ったんです。(当時)41歳になるし、まずは「家族と一緒に過ごすこと」を優先的に考えるべきだと。オフには仕事探しをしながら、でも、もしホッケーをやることになったら困るから、一応、体を鍛えておいて…。
――それで2022-2023シーズンからは2年間、東北フリーブレイズに在籍します。小原さんにとっては、最後のアジアリーグのチームになりました。
小原 当初、移籍の話し合いの解禁日に、どこからも話がなかったんです。ところが2、3日後にクリスさん(若林・総監督)から連絡が来た。その後に大久保監督(智仁・当時)からも話があったんです。自分は「もう、どこからも話は来ないだろう」と感じていたし、仕事探しを本格的にやろうかなと思っていた矢先だったんですよ。その年の6月に子どもが生まれる予定もありましたし、「もしかしたら移籍は難しいかもしれません」と電話で答えたくらい急な話でした。
――クリスさん、大久保監督は、かつてコクドやSEIBUで一緒にやった仲間です。小原さんに「フリーブレイズのここを変えてほしい」というスタッフの希望もあったのではないですか。
小原 クリスさんからは「今までの経験をチームに還元してほしい」と言われました。かつてフリーブレイズにはキャプテンの田中豪(FW)がいて、でも今はいない。1年でも2年でもチームにいることで何かを変えてほしい、ということでした。一番の決め手になったのはクリスさん、大久保さん、そして佐藤翔(現マネジャー)らのホッケー仲間の存在です。自分を評価してくれているのであれば、よし、やってみようと決めたんです。
――「自分を必要としてくれる場所」で生きること。人間にとって、それが一番尊いことなのかもしれません。でも、フリーブレイズにいるSEIBU繋がりは、現役ではもう田中遼(FW)選手しかいないですものね。
小原 フリーブレイズは知っている選手が数人しかいなくて、合流した当初は不安しかなかったです。最初の2022-2023シーズンは、僕のトップリーグでの「連敗記録」を更新していきましたよ。この年齢になってこういう試練が待っていたのかと思いました(笑)。
――その中で、小原さんが若手に話したのはどういうことでしたか。
小原 「みんなは日本代表を本気で目指しているの?」と、そこから話を始めました。「いやあ、興味がないですね」と言う選手もいましたが、「いや、それは違うでしょ」と。実際、石田陸、ロウラー和輝(ともにDF)と、フリーブレイズから代表に入る選手も出てきました。今年はトップ2には入れませんでしたが、ようやく組織として「上」を目指すチームになりつつあるのかなと感じているんです。
3月10日の試合後、今季最多の観客の前であいさつ(写真・東北フリーブレイズ)現役生活でいつも大切にしてきたもの。それは「周りのおかげ」という気持ち。――ひがし北海道クレインズと契約せずに、2年前にもし小原さんがアイスホッケー界からフェードアウトしていたら、たいていの人は「小原はどうしたんだ?」「そうか。引退したんだ」と寂しく感じたと思うんです。西脇さんの引退試合が、2022年3月にあったじゃないですか。コロナで無観客だったのは残念なんですが、あの試合で上野拓紀さん、河合卓真さん(ともにFW)も結果的にトップリーグから引退していきました。彼らは偶然にも元SEIBU組ですが、功労者にはそれなりの「別れ」の場を用意しなきゃダメなんじゃないかと思ったんです。3月に小原さんがフリーブレイズで引退セレモニーを行った。「ああ、よかったな」と安堵した人は多かったのではないでしょうか。
小原 3月10日にフラット八戸の最終戦で試合した時は、僕と同じ「76番」のユニフォームで、チームメートが試合前の練習に着てきてくれていたんです。田中豪の引退試合の時にも「14番」で…ということがあったのですが、僕がフリーブレイズにいたのはたったの2年ですからね。本当にうれしかったな。現役に思い残すことは…う~ん、そうですねえ。体も相当、酷使してきましたからね。
――今季はトップリーグ通算600ゴールを達成しましたし、最後の試合では、59分54秒にエンプティゴールを決めました。会場は、思い出のある東伏見。本当の意味で「さよなら」ゴールというか、これ以上はないシチュエーションだったと思います。
小原 最後のゴールのパスをくれたのが山田淳哉(FW)だったんですが、本当に絶妙な位置にパスを出してくれたと思います。僕のところに直接パスが来るのではなくて、僕が走り出したのと同じタイミングで、しかも相手のDFが届かない絶妙な位置にパスを出してくれたんです。武部虎太朗も、僕の背中越しに相手のDF2人をカバーしてくれた。本当に自分のために力を貸してくれました。
――子どものころから「ラストパスする方が好きなタイプ」だった小原さんが、ラストゲームで、チームメートの力を借りてゴールを決めた。「小原さんがフリーブレイズに残したもの」がわかったシーンだったと思います。
小原 どのチームにいってもそうなんですけど「周りの人のおかげ」というのは、自分の中ですごく大事にしていました。もし自分で自分のことを「すごいプレーヤーなんだぞ」と言っていたら、周りは助けてくれないと思うんですよ。お互いがお互いを尊重し合う。そんなことを大切にどのチームでもやってきたので、ここまで長くプレーできたのかなっていうのはあります。
――そういえば、昔から小原さんの怒ったところを見たことがありません。
小原 常にポジティブに、いつも「言い方」に気を付けていました。怒鳴ったところで、あまりいいことはないんですよね。どのチームに行っても「年上」として扱われるようになって、でもそこで言えば言うほど、相手は委縮してしまいますから。
――あの、これは答えたくなければ答えなくていいというか、もしかしたら小原さんにとっては失礼な質問かもしれないのですが。
小原 はい。え、何のこと…ですかね?
――高校2年で病気のことがあったじゃないですか。10代の若者にとって髪が抜け落ちてしまうというのは、深刻な問題だと思うんです。当時、小原さんを見ていて「この子、ホッケーをやめちゃうんじゃないか」と思ったんですよ。彼女だっていたでしょうし、当事者にとってそれこそ一生の問題ですから。
小原 今から25年前の医療が追い付いていない時期でしたよね。今は「自己免疫疾患」というらしいんですけど、自分の体が異物だと判断して、毛根を攻撃する病気です。当時、僕は「スキンヘッドにしちゃおう」と思って早く高校に戻りたかった。もしかしたら、今であれば病気も治ったのかもしれませんが、東京の病院だったら別ですが、当時の北海道ですからね。高校の同期はいいヤツらばかりだったので、僕の外見も含めて、チームの気持ちが切り替わっていた気がします。
――そうですか。小原さんも、駒澤の仲間たちも、あの時は「一線を飛び越えたな」という感じがしたんです。あえて「君づけ」で呼ばせてもらいますが、小原君も、当時の駒澤の仲間も、えらいですよ。そして小原君が覚悟を持ってアイスホッケーを続けていくんだなとわかったのが、この時なんです。
小原 はい。だから聞いてもらっても全然、大丈夫ですよ。駒澤の同期も言っていましたけど、スキンヘッドになったほうが、女子にはメチャメチャ人気があったような気がします(笑)。
――4月までは八戸で暮らすということですが、これからは何をしていくのでしょう。
小原 家族のことを考えて、釧路に戻ることを考えています。僕も奥さんも釧路に実家があるので、そこでいろいろ考えて、話を聞いてみて、この先の仕事を考えようかなと。指導者になるのも興味自体はありますが、新しくスタートする家族を振り回すことになるので、とりあえず今は考えていません。釧路で何か、やりがいがあるものが見つかるといいな。そう思っているんですよ。
本拠地最終戦では、チームメートが「76番」のユニフォームを着て試合前に練習するサプライズも(写真・東北フリーブレイズ)おばら・だいすけ1981年6月4日生まれ。北海道釧路市出身。FW。芦野小2年でアイスホッケーを始め、景雲中、駒大苫小牧高を経て早稲田大学へ。早大4年時の秋から北米のECHLでプレーし、2004-2005シーズンにコクド入り。2006-2007シーズンからは西武鉄道と合併したSEIBUプリンセスラビッツでプレーするも2008-2009シーズン限りでの休部を受け、2009-2010から郷里の日本製紙クレインズに移籍する。2014-2015シーズンからは王子イーグルス、2020-2021シーズンから、ひがし北海道クレインズ、そして2022-2023シーズンからは2年間、東北フリーブレイズでプレーし、このほど3月に42歳で現役引退を発表した。世界選手権は代表10回、五輪予選には3回出場。全日本選手権で3度のMVP。トップリーグは通算679試合出場、238ゴール、365アシスト、603ポイント。