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2020-09-15

【私の“奇跡の一枚” 連載85】 半世紀前こんなライバルたちが 火花を散らしていた!

先月号(平成30年12月号)で、出来山君(元関脇出羽の花)が、私の現役絶頂期の優勝(昭和55年初場所)を取り上げ、相撲も神がかり的だった、と書いてくれたのを読んで、私にもしばしあのころの記憶がよみがえってきた。

※写真上=新十両デビューを前に意気揚がる3人衆。左から旭國、黒姫山、私。今から半世紀前の、相撲に命を懸けていた若者の純情、ひたむきさをぜひ感じ取っていただきたい
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

まるで神がかりだった時期

 その昔、サインを頼まれると私は「神力」という文字をよく書いた。お坊さんに教えていただいた言葉で、その不思議なまでの力は、自分ばかりではなく、多くの人をも幸せにするという意味があると聞き、そんな力士になりたいと心の支え、目標としていたのだ。人間いい時期、悪い時期が誰にもあるものだが、今振り返ると、まさにあの時の私にはそんな力が乗り移っていたのかもしれない。

 よく体も動いたし、自分で思い通りの相撲が取れた時期だった。私なりに工夫をしながらつかんだスピード相撲が思うように取れたのだ。

 私が、横綱に推挙されたときは、喜びよりこんな俺で大丈夫かという恐れのほうが先に立った。一つの夢を実現して、名誉なことであるが、一方でその責任の重さを痛切に感じたのだ。

 当時輪島、北の湖、2代目若乃花の先輩3横綱はそろいもそろって強みを発揮していた。その中に入って迷惑をかけないでやっていけるのだろうか――。その怖さをぶち破って行かなければならない。私はよりいっそう闘志を燃やして稽古に励んだ。前を見て頑張らざるを得なかったのである

15歳少年の覚悟……

 私の相撲人生は15歳で入門した時に始まる。子供ながらに5年間はどんなことがあっても頑張ろうと決めた。たとえダメだったとしても20歳から新しい人生をやり直せばいい……今考えても不思議なくらい、そんな信念、覚悟が座っていたのである。部屋に80人を超す弟子がいた時代、競争、生き残りは大変だった。入ってくる人間も多いが、当時の相撲界の厳しさ、理不尽さに我慢できず、夜中にそっと逃げ出す人間も多かった。私はそんな姿を布団の中から薄目に見ながら、早く強くならなければと自分に言い聞かせていた。

 我慢と日頃の相撲の工夫が実って、私が新十両となったのが昭和44(1969)年春場所のこと。そのとき一緒に上がったのが、旭國(のち大関)と黒姫山(のち関脇)だ。

 初場所後、3人は翌場所の新十両紹介ということで、『相撲』誌の取材を受けた。入門以来の念願を果たし、素直にうれしさいっぱいの我々は、カメラマンの注文に応じ、我隅田川を挟んで蔵前国技館の両国側にある震災記念堂に足を運んだ。

 38年名古屋初土俵の同期生・旭國は小柄ながら、のちに相撲博士と異名をとったほどの研究熱心で知られていた。黒姫山は4場所ほど遅れて入ってきたが、体も大きくぶちかましが強くてとにかく馬力があった。ともに20~21歳の若者、にこやかな顔でシャッターを切られながらも、お互いに激しい闘志を燃やしていた。この後も競争で、巡業に出ると、ヤツらに置いて行かれてたまるかと、稽古、稽古の明け暮れだった。

 お陰で、彼らは2場所で十両を突破、私も3場所で入幕を果たした。その後のそれぞれの個性的な頑張りは、多くの相撲ファンの記憶の中に……

語り部=石山五郎(元横綱三重ノ海。相撲博物館館長)

月刊『相撲』平成31年1月号掲載 

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