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2020-01-24

【連載 名力士たちの『開眼』】 小結・大潮憲司編 “忍の一字”――幕内エレベーター13回の勲章[その3]

人間が一生のうちに出会う「得」と「損」は、一体どっちが多いのだろうか。11回目の入幕を果たしたばかりの昭和54(1979)年春場所、大潮は思わず天を恨みたくなるような不運のどん底に突き落とされた。

※写真上=昭和45年初春に月刊『相撲』で紹介された有望力士たち。左上の大潮から時計回りに三重ノ海、双ツ竜(のち双津竜)、旭國、吉王山、貴ノ花、増位山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】十両と幕内の往復を繰り返していたが、ある出来事をきっかけに開眼。昭和52年九州場所で突如大化けし、大関旭國、貴ノ花、若三杉の三大関を撃破し、翌場所の小結昇進を確実にするとともに、初の三賞である技能賞をモノにした――

誤診で却下された公傷申請

 2日目の青葉山戦。大潮はいつものように頭から当たり、得意の左上手を取った。ところがあまりにも勢いが良すぎたために腰が入り、一瞬、右足が返ってしまったのだ。このため大潮はこの右足からガクッと自滅し、しかも青葉山の体重がモロに上にかぶさるかたちに。2人分の体重がかかり、グニャっと押しつぶされた右足を引きずり、やっとの思いで土俵を下りた大潮は、ただちに協会指定の病院にかつぎ込まれた。

 しかし、そこに第2の不運が待ち受けていた。専門の外科医が不在だったのだ。このため、たまたま居合わせた内科医が代診し「右足親指挫傷で全治1週間」と診断。その夜、大潮は一晩中患部を水で冷やしたが、一向に腫れも痛みも引かないため、師匠の時津風親方(初代豊山)の勧めで翌3日目から休場。帰京してかかりつけの病院で診てもらうことにした。

 ところが、再診結果を聞いて目の前が真っ暗に。なんとレントゲンに7カ所もの骨折痕がクッキリと写っていたのだ。完全な誤診だったのである。

 骨が折れていたのでは、とても1カ月や2カ月では復帰できない。大潮はすぐさま大阪の師匠に連絡し、公傷の手続きをとってもらうことにした。公傷が認められれば、たとえ2場所連続休場しても、転落を十両で食い止めることができる。

 しかし、目前にまたしても第3の不運が。大潮が足を痛めた直後、自力で土俵を下りたことや、骨折判明まで時間がかかりすぎていることなどを理由に、この公傷申請がまさかの却下になってしまったのだ。

 ――オレは、何一つミスしていないのに。明らかに土俵上のケガなのに。それなのに、オレ一人に責任を負っかぶせて幕下に落とすとは。どうしてこうなるんだ。

 それから2週間後の名古屋場所、とうとう幕下の東5枚目まで滑り落ちた大潮の持っていきようのない憤りの大きさは、おそらく同じような理不尽な思いを経験した者でないと分からないに違いない。(続)

PROFILE
大潮憲司◎本名・波多野憲二。昭和23年1月4日、福岡県北九州市八幡東区出身。時津風部屋。186cm134kg。昭和37年初場所、本名の波多野で初土俵。44年夏場所、大潮に改名。同年九州場所新十両。46年秋場所新入幕。最高位小結。幕内通算51場所、335勝413敗17休。敢闘賞1回、技能賞1回。63年初場所に引退し、年寄錣山から式秀を襲名。平成4年独立し、茨城県龍ケ崎市に式秀部屋を創設。平成25年1月、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年1月号掲載

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