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2020-01-21

【私の“奇跡の一枚” 連載52】 忘れられない新弟子テーマ企画 力士として親方として、私を2回も驚かせたいがぐり少年

私は1979年(昭和54年)5月、プロデュ―サ―としてNHK特集「新弟子~15歳の土俵奮戦記~」という番組を制作した。中学校を卒業したばかりの少年たちが慣れない相撲界に入門、九重部屋で頑張る姿を描いた番組である。その九重部屋の新弟子7人のうちの一人に、のちに横綱、そして理事長にまでなる保志少年がいた。

※写真上=幕内に昇進したころの保志関と筆者。ふだん取材対象者とスナップなど取ることなどないのだが、たまたま撮影してもらったもの。それだけに思い出深い一枚となっている

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

大量新弟子の中では目立たない存在だった

 新弟子の保志はいがぐり頭で体も小さく、いかにも純朴、正直言って特に目立つ少年ではなかった。しかし稽古熱心差では群を抜いており、初土俵同期111人の新弟子の中でも出世は早かった。

 同期の中には末は横綱と当時から目されていた北尾(のちの横綱双羽黒)がいた。保志はこの北尾を追うように順調に番付を上げて昭和58(1983)年3月新十両、同年9月新入幕と、同期生のトップ出世を果たした。

 私は、体には恵まれていない保志だが、真面目で稽古熱心なだけに、うまくいけば大関まではいくだろうと思っていた。

 部屋の兄弟子には角界を席巻する千代の富士がおり、保志はその胸を借りて真摯で厳しい押し相撲を磨き、どんどん番付を上げ、昭和61(1986)年7月場所後大関へ昇進、同時に四股名も北勝海と改名した。

伝説的な猛稽古に見事に耐えた――

 彼の稽古の激しさを今でも私は鮮明に覚えている。さらに仕上げのぶつかり稽古はいつも長く、稽古が終了するや北勝海は呼吸も荒いまま、精根尽き果てたように、コロッとした体をオットセイのように土俵に横たわらるのが常だった。ときにはそこに師匠の九重親方(元横綱北の富士・現相撲解説者)と千代の富士がまだまだもう一丁!」と追い打ちを掛ける。すると倒れ込んで死んだようになっていた北勝海は、激しい息づかいのまままた立ち上がりぶつかっていくのである。

 毎日のこうした激しい稽古で新たな境地を開いた北勝海は、87年(昭和62年)5月場所後第61代横綱に昇進したのである。まさかあの体に恵まれなかった保志少年が横綱にまでなるとは――これが第1回目の驚き。師匠の北の富士さんも北勝海の昇進が驚きであったと語っている。

 横綱に昇進した北勝海は、激しい腰痛との闘いなどを克服、8回の優勝を成し遂げた。

 引退後九重部屋から独立した北勝海は八角部屋を立ち上げ、北勝力、海鵬、隠岐の海など3人の三役力士をはじめ9人の関取を育てている(平成28年当時)。弟子育成に励みながら協会の仕事も立派にこなし、平成26(2014)年の役員改選では協会ナンバー2の事業部長に就任。そして平成27年12月北の湖理事長死去の後、日本相撲協会第13代理事長に就任した。

 これまでのファイトあふれる相撲、真面目で誠実な人柄、そして相撲に対する研究熱心な姿勢が協会業務でも発揮され、八角理事長誕生につながったものと思う。あのいがぐり頭の純朴な少年が……この理事長就任が、私にとっての2回目の驚きとなった。

 私がたまたま取材する機会に恵まれたあの新弟子クンが、横綱昇進、さらには理事長就任と見事なサプライズ劇を見せてくれたのである。大相撲報道にたまたま長く携わったおかげで、すぐ近くで成長する姿を見ることができたのである。何という僥倖だろうか。努力は人を変える――保志はまさにそのことを目の当たりに見せてくれた偉い少年であった。

語り部=谷田龍輔(元NHKプロデューサー、相撲記者クラブ会友)

月刊『相撲』平成28年4月号掲載

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