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2019-12-17

【私の“奇跡の一枚” 連載47】 転身でつかんだ充実人生 力士のままでは今日はなかった!

相撲の床山というと、裏方そのものということもあって、一般的には昔から小柄であまり目立たない好々爺の職人風、とイメージされているようだ。

※写真上=昭和43年春場所の二番出世力士(13日目)の記念写真。後列右端が筆者。ちなみに左端は小椋(のち幕内大登・大飛=現大山親方)。あんこ型はまだ一般的に少なかった時代
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

足掛け49年の相撲生活

 だから私が床山だと知ると、初対面の方は、体の大きさにまずびっくりされる。

 私は北海道三笠市の出身。高校を中退し、炭鉱設備関係の会社で働いていたところ、昭和42(1967)年夏巡業の折、バスケットボールをやっていた体をかわれ、佐渡ケ嶽部屋の後援者の勧めで力士になる決心をし、そのまま一行に加わる形で上京したのだった。

 しかし、9月場所前の検査では体重が足りずに不合格、11月は提出書類が不備で検査が受けられず、合格は43年の初場所になってしまった。ここで本中に加わり、大阪の3月場所ようやく二番出世――。

 約2年間の力士時代にいい思い出はほとんどない。規律も稽古も厳しかったし、むちゃくちゃな兄弟子も大勢いた。写真の後列右端が私だが、兄弟子に殴られて右目を腫らした状態での晴れ姿だった。

 私が入った当時の部屋は先輩床山さんが半年ほど前にやめた状態だったので、力士同士でマゲを結い合っていた。手先が器用だった私にもその役目が回ってきて、見よう見まねながらすぐに結えるようになって、重宝がられた。ところがそのうち、時間がないのに兄弟子のマゲを結わされたために、自分の取組の出番に間に合わなくなる事件が起こり、叱られて嫌気がさしかけていたところ、床山に転身しないかという話が起こり、そこから私の新しい人生が開けた。

 師匠の佐渡ケ嶽親方(元小結琴錦)、補佐役の尾車親方(元大関琴ケ濱)のもと、当時上り坂の琴櫻、長谷川という有望力士を抱えて、部屋の人気はすごかった。床山となったとはいえ、ショボくれ序二段だった私に、いきなり、そこの大関琴櫻関について財布番もこなすという大役までが回ってきたのだ。それと同時に、場所後の巡業に出ていきなり大銀杏も結わなければならないことになったのだ。以来、当時名人と言われていた床熙、床勇さんの髪の結いぶりを目で盗むなど一生懸命勉強した。上達するまでは大関の大銀杏は当然まだ結うわけにもいかないので、同じ部屋の十両朝風関の頭を借りて稽古を積んだ。

 床山の技は力ではない。基本の元結をきつく縛るのでも、くわえた歯、引っ張る右手、マゲを握った左手の感覚、調節具合で大いに違ってくる。いわゆるビン付け油の練り方、付け方。それぞれにコツがある。特に髪の張り出し部分を作る際の曲げ棒の手際よい入れ方(私はマゲの根本を下ろす前3回、下ろしてから3回の計6回のみ)……。おかげで“大銀杏を早く結うときは床佐渡”と巡業でも重宝されるようにはなった。

 失意の力士から床山になった形の私だが、そのおかげで日本文化の粋と呼ぶに相応しい伝統社会の中で、歴代師匠、名力士と生活を共にしながら、その戦いぶり、迫力、ドラマを間近にし、人柄に触れることができた足掛け49年。佐渡ヶ嶽部屋の床山になったからこその充実人生――。今はただ感謝しかありません。

語り部=床佐渡こと安田秀一(特等床山。昭和25年11月11日生まれ。昭和44年9月床山採用。佐渡ヶ嶽部屋。平成27年九州場所停年)

月刊『相撲』平成27年11月号掲載

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