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2019-10-25

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・舛田山茂編 一番一番を大切に取り切ってプロに変身……――[その3]

昔の武士は、いかに咲くかというよりも、いかに散るかということに最も神経を費やしたそうだが、力士も、この散り際が一番難しい。

※写真上=昭和62年の福祉大相撲で熱唱する舛田山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】十両時代に負ったケガの影響で、土俵に復帰後の成績は以前のように順調にいかなかった。浮き沈みを繰り返しながら迎えた夏巡業で、あこがれの大関貴ノ花に励まされ、奮起。昭和55年名古屋場所、ついにその大関を破る日がやってきた――

後進を育て土俵を去る

 通算93場所。最高位関脇。殊勲賞2回、敢闘賞1回。金星1個。十両優勝1回。これが通算16年にわたる舛田山の現役生活の主な記録である。学生相撲出身の力士では、文句なしに長寿である(当時)。

 生涯唯一の金星は、昭和55(1980)年九州場所10日目、対若乃花(2代、横綱)戦で挙げたものだった。このときのうれしさと平成2(1990)年に亡くなった師匠(元横綱栃錦)の笑い顔が、千賀ノ浦親方の心のなかではいつも渾然一体となっている。

「若乃花関は、相撲がうまかったですからねえ。何番やっても、まるで相撲を取らせてもらえないんですよ。おそらく師匠もそんな自分を見ていられない心境だったんじゃないですか。あの朝、稽古場で、とにかくなんでもいいからやってみろ、と叱咤されたんですよ。だから、こっちも必死。たまたまこの気持と、向こうの油断がうまく重なって、いつもなら決まらないような右からの肩透かしがたまたま決まっちゃったんですよ。打ち出し後、これで師匠もさぞかし喜んでくれるだろう、もしかしたらご褒美ももらえるかもしれないぞ、と浮き浮きして報告に行きましたよ。ところが師匠は、ホラッ、やればできるじゃないか、とニヤニヤしただけで、お褒めの言葉もご褒美もなし。今思うと、このぐらいのことで喜ぶな、お前にはもっと期待しているんだから、という新たな叱咤だったと分かりますけど、あのときはさすがにガッカリしたなあ」

 こんな舛田山も、58年をピークに徐々に力が落ち、34歳になると幕内から転落し、そのまま十両に定着。学生時代からのライバルの出羽の花が63年初場所限りで引退してしまってからは、本気で、いつ引退するか、散り際を考えるようになった。

 ところが、そのことを相談しようにも、だれもまるで耳を貸さないのだ。

「やめるのは簡単さ。わざわざ相談するまでもないだろう。でも、ただマゲを切るだけじゃ、プロのやめ方じゃないぞ。やめるんだったら、自分の代わりをつくってからやめろ。それが本当のプロのやめ方だ」

 学生相撲で育ち、本物のプロを目指してこの世界に飛び込んできた舛田山にとって、あるとき、この古手の親方が漏らした言葉は抗い難い凄みを秘めていた。このため晩年の舛田山は、稽古場で後輩の栃司(現入間川親方)や、栃纒、栃乃和歌(現春日野親方)らに、胸を出すのを一番の仕事にしていた。彼らが早く上位に上がって来ないと、いつまでもやめられないからだ。

 そして、栃司、栃乃和歌の2人が幕内に定着するようになった平成元年名古屋場所千秋楽、やっと引退を。

「今の学生出身は、サラリーマンよりこっちのほうが待遇がいいから、という理由だけで気軽に入って来ますけど、自分らのころは、入門する人数も少なく、丁稚奉公にでも行くような悲壮な覚悟で入ってきたものです。ちゃんこも、しばらくは1ランク下の力士たちと食いましたし。でもそのお陰で、後輩たちには体験できないようないろんな人生勉強ができました。たくさんの人とのつながりもできましたし。これが今の自分の最大の財産ですよ」

 と、千賀ノ浦親方はしみじみと語る。

 平成6年春場所、千賀ノ浦親方は審判委員として土俵下に初お目見した。現役時代に培ったこの財産をどう生かして、際どい勝負の綾を見極めるか。アマから本物のプロへの変身に成功した男のしたたかな目にご注目を。(終。次回からは関脇玉ノ富士茂編です)

PROFILE
舛田山茂◎本名・舛田茂。昭和26年4月10日、石川県七尾市出身。春日野部屋。186cm150kg。昭和49年春場所、舛田山の四股名で幕下60枚目格付出。50年初場所新十両。51年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算47場所、313勝387敗。殊勲賞2回、敢闘賞1回。平成元年名古屋場所に引退し、年寄千賀ノ浦を襲名。16年秋場所後、分家独立し千賀ノ浦部屋を創設。幕内舛ノ山を育てる。30年9月、常盤山に名跡変更。

『VANVAN相撲界』平成6年4月号掲載

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