窓の外は、やけどしそうな8月の暑い陽の光がいっぱいにはじけている。今ごろ、故郷の青くひんやりとした能登の海辺は、自分の子どものときと同じように、黄色い歓声がこだましているに違いない。
※写真上=当時は珍しかった学生相撲出身力士として、38歳まで現役を続けた舛田山
写真:月刊相撲
果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
――ああ、一体オレはどうなっちゃうんだろう。ちゃんとこの足は治るんだろうか。治っても、また土俵に上がれるんだろうか。
舛田山は、ギプスでしっかりと固定されている右足に弱々しく視線を落とすと、さっきまで広げていた雑誌をパタンと閉じた。それは、人間には想像もつかないような帰巣本能で、はるかかなたの自分の巣を目指し、今まで一度も見たことない空を一心に飛んでいく島を表紙にあしらったレース鳩の雑誌だった。
元高校横綱で、拓大4年のときに学生横綱を懸けた学生選手権では、決勝戦で惜しくも野村(のちの出羽の花、現・出来山親方)に負けてしまったが、アマ相撲界のエースだった舛田山が春日野部屋入りを決意したのは、昭和49(1974)年の、年が新しく改まって間もなくのことだった。
「なかなか(入門の)決心がつかないって。なにを迷うことがあるんだい。以前は、十年一昔と言ったものだけど、このごろは時の流れが早いので、大体5年で一昔だな。お前は今22(歳)だろう。じゃあ、5年経っても、まだ27(歳)じゃないか。だめなら、そこで方向転換したって、やり直しは十分効く。就職先だっていっぱいあるさ。(ライバルの)野村も入門するっていうじゃないか。お前も、せっかくここまで相撲をやってきたんだから、思い切ってプロで腕試ししてみたらどうだい」
故郷の石川県七尾市に住んでいる父親の実さんのこの言葉が入門の決め手だった。当時の学生出身力士は、今と違って5本の指で数えられるほどの少数派。
みんな入門するときには、救命具なしで人っ子一人見当たらない大海に飛び込むような勇気を要したものだった。
初土俵は3月の春場所。もちろん、幕下付け出しである。舛田山のプロ滑り出しは、案ずるより産むが易しで、快調そのもの。一緒にスタートを切った野村がいきなりデビューで3勝4敗とつまずいたのを横目に着実に白星を重ね、5場所であっさり幕下を通過。翌50年初場所には、早くも十両昇進を果たしている。
この順風満帆の裏には、それなりの秘密が――。というのも、プロ入りするまでの舛田山の相撲は、右を差し、186センチ、140キロの巨体を利して寄り立てる典型的な四つ相撲だった。
ところが、入門してみてそれこそ顔面蒼白に――。
当時の春日野部屋には、栃勇や、忍の山、巌虎ら、生きのいい幕下力士が十数人も群雄割拠し、舛田山の四つ相撲はまるで歯が立たないのだ。ただ、突っ張ると、自分でも不思議なくらい目が出た。
「ということは、お前には四つよりも、突っ張る相撲のほうが向いている、ということだ。結論ははっきりしたじゃないか。これからは、何が何でも突っ張れ。廻しに手をかけようものなら、承知しないぞ」
入門して間もなく、舛田山は、師匠の春日野親方(元横綱栃錦)の鶴の一声で取り口の大改造を強いられることになったのである。
立ち合い、突っ張って相手をのけぞらし、次の瞬間、思い切って叩く、というすこぶる単純明快な“舛田山相撲”は、舛田山がアマ時代の甘い幻影を捨て、生き馬の目を抜くプロの世界で生き抜いていくために死物狂いで編み出した苦心の戦法だったのである。
十両昇進後も、この叩き相撲に磨きがかかり、その後の足取りもまずまず。ところが、その十両4場所目の名古屋場所7日目、舛田山は、生まれて初めて地獄の底を垣間見、想像もしなかった辛酸をなめる羽目に追い込まれてしまった。
この悲劇の日の相手は、右の上手を取ると三役、大関とも五分、と言われた実力者の青葉山(最高位小結)だった。廻しを許したら、とても勝ち目はない。
舛田山の活路は、突いて土俵狭しと暴れまくるしかない。序盤は舛田山の作戦どおりに進んだ。青葉山を突き立て、さらに追い打ちをかけようと気負い込んで土俵を回り込んだときのことだった。右足のほうから「バチッ」という音が聞こえたところまではよく覚えているが、その直後、急に記憶が途切れ、再び気付いたとき、舛田山は土俵の中央であぐらをかいて座り込んでいる自分を発見した。
「アレッ、アキレス腱でも切ったのかな、とそのときは思いました。とにかく右足のカカトの部分がしびれて、動けませんでしたから。でも、すぐ病院でレントゲンを撮ってもらったら、カカトの骨が欠けていたんですよ。それも大きく。その病院に向かう救急車の中で、ああ、ちゃんと大学を卒業していいてよかったなあ、と真っ先に思いました。これでもう自分の力士生命は断たれた、と思いましたから」
初土俵から16年後の平成元(1989)年名古屋場所限りで引退して、年寄「千賀ノ浦」を襲名。6年1月末の異動で審判委員に抜擢された舛田山改め千賀ノ浦親方(現常盤山)は、この19年前の突然のアクシデントの模様をこう語っている。
――でも、たとえダメだとしても、あのときあそこの病院で治療してもらっていたら、大丈夫だったかもしれない、と後で悔いの残るようなことだけは受けたくない。
救急車にかつぎ込まれるとき、吐き気を催すような痛みの中でこう思った舛田山は、付き添いの若者頭にすがりつくようにして叫んだ。
「頭(かしら)っ、日本一の先生のいる所に連れて行ってください。お願いしますっ」
こうして舛田山は師匠の“人脈”などを駆使し、当時、この種の治療にかけては日本で三本の指に入る、という名医がいた都内・大田区の東急病院に入院し、緊急手術を受けた。今でも千賀ノ浦親方の右のカカトには、このとき欠けた骨を固定するために使用した金属製の長さ7センチのボルトが2本、入っている。
それから2カ月に及ぶ入院生活。結果を先に言うと、この手術は大成功し、2場所後の九州場所には早くも土俵に復帰することができたのだが、この入院中はまだそのことは分からない。舛田山は、目を覚ましている間中、再起できるかどうか、不安と焦りにさいなまれ続けた。半分あきらめてはいたものの、まだやっと24歳になったばかり。現役の夢を捨てるには、余りにも若かったのだ。
そして、この生まれて初めてのつらい心の葛藤が38歳まで現役で頑張れた原動力の「その日、その日の一番に集中する大事さ」を育んだことに気付いたのも、このずっと後になってからだった。
こんな奈落の底で暮らしている舛田山の唯一の楽しみは、子どものころに飼ったことがあるレース鳩の雑誌を広げているときだけ。寝ても覚めても、ベッドに縛り付けられている生活を送っていただけに、大空を伸び伸びと飛翔する鳩の自由さがうらやましかった。
――退院したら、また鳩を飼ってみようかなあ。
舛田山は、窓の向こうにもくもくと盛り上がっている夏雲を見ながら、ふと思った。(続)
PROFILE
舛田山茂◎本名・舛田茂。昭和26年4月10日、石川県七尾市出身。春日野部屋。186cm150kg。昭和49年春場所、舛田山の四股名で幕下60枚目格付出。50年初場所新十両。51年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算47場所、313勝387敗。殊勲賞2回、敢闘賞1回。平成元年名古屋場所に引退し、年寄千賀ノ浦を襲名。16年秋場所後、分家独立し千賀ノ浦部屋を創設。幕内舛ノ山を育てる。30年9月、常盤山に名跡変更。
『VANVAN相撲界』平成6年4月号掲載
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