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2019-08-27

私の“奇跡の一枚” 連載30 FCの先駆け『相撲友の会』

私は、大阪は岸和田出身で、幼いころから(昭和40年代)相撲に大きな関心を抱いていたが、協会に何のつてもない一般ファンだった。そんなとき、頼りにして入会したのが、当時意欲的に組織づくりをしていた「大衆の相撲を考える会」だった。当時の相撲界は、一般人には敷居が高く、単純に相撲を楽しみたいというファンには近づきにくい存在だったからだ。

※写真上=昭和55年蔵前国技館の隣、隅田川のほとりにあったホテルマタイに、当時一番の人気力士・貴ノ花関(若貴兄弟の父)をゲストに招いて応援と勉強会を行った「友の会」。歓迎の挨拶をしているのが香山会長
写真:奥谷朱美

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

「ファンのファンによるファンのための“友の会”」

 その会の延長で、私はのちに「相撲友の会」を結成することになる人物と知り合った。それが、自身は税理士として活躍しながら、タニマチとしてよりも一般ファンという立場で若い人々とともに大相撲を盛り上げ、広めていこうとしていた香山磐根さんだった。一方で私は程なく元横綱吉葉山の宮城野部屋関係者と円がつながり、昭和50(1975)年2月に入門ということに相成った。

 最初は同好の士としてお近づきを得たわけだが、上京以来、香山さんは、田舎からポッと出てきた私にとって東京の父、社会の常識まで教えてくれる師のような存在となって陰になり日向になり私を励ましてくださった。得意分野の相撲錦絵(自称相撲錦絵吟味役・相撲史実探索方)は言うにおよばず、該博な相撲知識で未熟な私の勉強も補佐していただいた。

 提出した写真の「友の会」風景だが、当時は一般ファンの会に当代一の人気力士が来るなんて考えられなかったときで、ひとえに香山さんの人徳のしからしむるところだった。周りの大勢のファンに「さすがは相撲友の会」とうらやましがられたものだ。

「菊づくり菊を見るときゃただの人」

「相撲友の会」自体は、52年11月に創立され、月1回発行する「すもうだより」を会報(53年1月創刊)として、以降着々と信頼を集めていった。今に思うと、会員に当時の相撲記録の第一人者・三谷光司氏や渡辺光太郎氏をはじめ、相撲郷土史研究家、資料収集家として有名だった人、そしてまた若き日のデーモン閣下など、錚々たるメンバーが名を連ねていた(本職の行司となった私は特別会員として遇していただいた)。

 会のモットーも「相撲大好きな人ならだれでも入会可」と懐が大きく、家族会員にも配慮したため、「相撲のことをもっと知りたい」「角友が欲しい。そして熱く語り合いたい」というファンであふれていた。

 東京・南青山の「香山会計事務所」における会報の編集発送作業、場所前の各部屋に分散しての稽古場見学、東京場所の初日会見総見(椅子C席)などには、熱い情熱と喜びがあふれていた。ネット時代のいまだったら巨大なサイトになっていたに違いない。

 ふくよかにしてにこやかな笑顔で、相撲と相撲界を自然体でやさしく見守り一途に愛した香山さんだったが、さる5月7日、胃がんのため亡くなった。中国大連生まれの香山さんはまた、中国残留孤児の支援、世話にも大きな力を尽くしながら「人生に潤いをもたらせてくれた相撲に感謝しつつ」(ご本人のことば)85歳の人生を終えられた。そんな、相撲界を陰で支えた大きな人物の存在と、「相撲友の会」という素晴らしい会がかつて存在した(平成11年解散)ということを、相撲史の流れの中でファンの皆様にお伝えしたく、今回、勝手ながらこの誌面、企画を借りて私の思い出話を語らせていただきました。合掌。

語り部=40代式守伊之助(本名・野内五雄、大阪府出身、宮城野部屋)

月刊『相撲』平成26年7月号掲載

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