知られざる親子ボクサーの物語を紹介したい。19日(日)、沖縄・うるま市で平仲ボクシングスクール主催の『MUGEN 挑 vol.14』が行われる。試合会場の石川多目的ドームは、普段は闘牛場として使用される屋根付きの半屋外施設。換気もよく、入場数に制限をかけるなどの対策をとった上で、国内プロボクシング再開後では初めて観客が入れられる。そのリングで約2年ぶりとなる復帰戦を行うボクサーの名前が目にとまった。

写真上=19日、沖縄で2年ぶりにカムバック戦を行う東大河(撮影/船橋真二郎)

エリートに噛みついてみせるも…

 東大河(ひがし・たいが/平仲BS)という。これまで8戦して5勝2KO3敗。24歳の6回戦ボクサーである。ブランクの間、交通事故に遭ったらしいとは沖縄の知人から聞いていた。詳しい事情はわからないのだが、同じ沖縄のボクシングクラブナカザトから2度目となるジムの移籍。バンタム級から転級(60㎏契約=ライト級相当)。ブランクを考慮してか、4回戦からの再スタートになる。

 戦績こそ平凡だが、好戦的なファイターは印象に残るシーンを演じている。2017年12月30日、井上尚弥(大橋)がWBOスーパーフライ級王座の7度目の防衛に成功した横浜文化体育館のアンダーカード。芦屋大時代に国体優勝、奈良朱雀高から通算87戦(72勝15敗)のアマチュアキャリアがあるサウスポー・中嶋一輝(大橋)のプロ3戦目の相手に抜擢された。いわゆる噛ませ役だが、初回にいきなり噛みついてみせる。続けざまに放り込んだ右フックの3発目でダウンを奪い、場内をどよめかせるのである。その後は痛烈なローブローを受けるアクシデント。中断を挟んだ再開後、一発を警戒し、リスクを回避する中嶋に徹底して足でさばかれた。小差の判定負けに終わったものの、現在は無敗のまま日本バンタム級5位まで上がってきた大橋ジムのホープに冷や汗をかかせた。

 2018年6月には、東京・後楽園ホールでプロ2戦目の稲元純平(熊谷コサカ)と対戦。元女子プロボクサーの母・稲元真理の影響でジュニア年代からキャリアをスタート。中2、中3とU-15全国大会を連覇し、白鷗大足利高では選抜準優勝、国体3位の成績を残している。その稲元を放り込むような右で2回に倒し、またしても驚かせる。が、以降はヒットは奪うも狙いすぎて単発になった。試合途中に流れ出した鼻血が止まらず、次第にスタミナをロスしていった。立て直した稲元も右の残像がちらつくのか思いきった攻めは仕掛けられず、ペースは奪えない。結局、判定にもつれ、ジャッジ3者全員が1ポイント差で支持したのは稲元のほうだった。そして僅差の採点に泣いた、この試合以来、リングから遠ざかることになる。

帰郷、そして再起

 東を知ったのは、まだデビュー前だった。「パンチがあるし、なかなか根性があるやつなんで注目しといてください」。当時、所属していたワタナベジムで小口忠寛トレーナーに紹介された。生まれ育った熊本県熊本市から単身上京した、ふてぶてしい面構えの少年は、頭をぴょこんと下げ、一瞬はにかんだような表情を見せると、それを隠すようにシャドーボクシングを続けた。

 2014年7月、18歳でデビュー。東京時代の4戦(3勝1KO1敗)は、持ち前の強気とアグレッシブさが空回りした印象が残る。1年後の2015年7月、負傷判定で3勝目を挙げてからは、いつまで経っても次の試合が聞こえてこない。取材で訪れたワタナベジムでも姿を見かけなくなった。ある日、小口トレーナーに訊ねると「家の事情で熊本に帰った」という。たまに連絡を取ると「またボクシングをしたい」と言っており、「待っているから、いつでも戻って来いよ」と伝えているということだった。

 初めて東ときちんと向かい合って話を聞いたのは、中嶋戦から約1ヵ月後。比嘉大吾(現・Ambition)がWBCフライ級王者として沖縄に凱旋した2018年2月だった。珍しく肌寒い沖縄・宜野湾市のナカザトジムを訪ねた。

 すぐに東京に戻るつもりだったが、「家の事情」に片が付かなかったこと。また小口トレーナーのもとでボクシングをやりたい気持ちはあったが、東京での生活に馴染めていなかったこと。そういう状態での毎日の練習が苦しかったこと。それでも続けられたのは「小口さんのおかげ」だったことを訥々と話した。

「最初は厳しいし、うるさいし、この人、嫌だなと思ったんですよ。でも小口さんが我慢というか、ボクシングを続けることを教えてくれて。この人についていけば、強くなれるかなって。そしたら練習中だけじゃなくて、プライベートでもかわいがってくれたから。ほんとは優しい人なんだって」

 地元の知り合いに素直に迷いを打ち明けると「(ナカザトジムの)仲里繁会長を知っているから、沖縄でやり直せ」と言われた。ワタナベジムに東の事情を説明し、後押ししてくれたのは小口トレーナーだった。

父親が死んで思った

 沖縄について来てくれた女性と結婚し、子どもがいる。現場仕事で家族の暮らしを支えている。沖縄の人は九州と人柄が近いし、東京よりずっと住みやすいのだが、朝早くから仕事に出かけ、日々の生活に追われている感じがする。ジムにいる時間だけは、素の自分に戻れるような気がする。苦笑しながら、そんな話を続けた。

 彼の父親がプロボクサーだったと知ったのは、ボクシングを始めたきっかけを訊ねたときだった。ずっと野球をやっていたが、いまいち目立つことができなかった。腕っぷしには自信がある。ボクシングなら自分が主役になれるのではないか。小学6年のとき、ボクサーだった父親に話すと、すぐにサンドバッグとグローブを用意してくれた。マンツーマンの練習が始まった。しかし、親子の時間は長くは続かなかった。

「ひたすらシャドーとサンドバッグばっかり。いちいち、ああしろ、こうしろ言われるのもムカツクし、まったく面白いとは思わなかったです。中学に上がったら、遊びのほうが楽しくなって。3、4ヵ月で辞めました」

 小口トレーナーからも聞かされていたが、かなりヤンチャな少年時代であったらしい。野球もボクシングもやめてから素行の悪さはエスカレートし、彼自身、歯止めが利かなくなっていったという。

 ほとんど家に寄り付かず、荒れた生活を送っているころだった。若くして父親が亡くなってしまう。「ショットバーをやっていた」という仕事柄もあってか、酒の飲みすぎで肝臓を悪くしていたという。見かねた父親と親しかった知り合いにこんこんと諭され、こう告げられた。このまま落ちるところまで落ちるのか、ボクシングをやるか、どちらか決めろ、と。

「父親が死んで思ったんですよ。ウソでもいいから、ボクシングをやっている真似をしてあげればよかったなって」

 息子にボクシングをやってもらいたいという気持ちは伝わってきていた。サンドバッグやグローブを買ってきてくれたとき、父親が見せた嬉しそうな顔――。今なら、あのときの厳しさも、口うるささも、優しさの裏返しだったとわかる。のちに沖縄行きも勧めることになる、ボクシングで更生をはかろうとした、その恩人も、父親の思いを汲んでいたのかもしれなかった。それが大河が東京に出た理由だった。

父が奪ったダウンの意味

画像: 1984年、日本王者の友成光(右)に挑んだ父・光輝(写真/BBM)

1984年、日本王者の友成光(右)に挑んだ父・光輝(写真/BBM)

 父親の名前を東光輝(ひがし・こうき)といった。元日本ライト級1位のランキングボクサー。地元の老舗・熊本ジムから日本ライト級王座にも2度挑戦している。

 1度目は1984年8月25日。1階級下のスーパーフェザー級で日本王者となり、プエルトリコで世界王座に挑戦したこともある友成光(新日本木村)に仙台で挑んだ。次戦で浜田剛史(帝拳)を迎えることになる友成にとっては、“前哨戦”という位置づけだったろう。左アッパーで負った左目周囲の腫れで目が塞がり、3回終了TKO負け。初のタイトル挑戦はあっけない幕切れとなった。2度目は1987年9月24日。のちに日本ライト級王座を9度防衛、東洋太平洋同級王座を5度防衛する大友巌(大川)に後楽園ホールで挑戦した。試合開始から王者に攻め込まれるも粘り強く戦い、ダメージを受けながら懸命に抵抗するなど、闘志を見せたが、最後はレフェリーストップによる6回TKOで退けられた。

 1980年代に2度、日本ライト級王者になったシャイアン山本(国際)こと山本幸治・現シャイアン大嶋ファイトクラブ会長に「(1982年12月に対戦している)東光輝について覚えていますか」と訊ねたことがある(山本の4回TKO勝ち)。

「(背は)小さかったけど、ガッツのあるファイターだったね」の答えがリングの上の息子と重なった。そして、「よく後楽園ホールにも呼ばれていて、負けも多かったみたいだけど、それでも地方のジムからタイトルに挑戦しているぐらいなんだから、それだけ気持ちが強かったんじゃないかな」と続けた。

 次に大河と直接言葉を交わしたのは稲元戦後の控え室だった。私の顔を見るなり、それが合言葉でもあるように「またアマチュア(出身選手)に勝てなかったです」と悔しがった。沖縄で会ったとき、「もうアマチュアには負けたくない」と負けん気を見せていた彼に伝えたいことがあった。東京に戻り、東光輝についてボクシング・マガジン編集部でバックナンバーを調べたとき、興味深いことを知った。

「お父さんの光輝さんは日本ランキング1位の元アマチュア選手に勝って、2度目のタイトル挑戦のチャンスをつかんだらしい」。父親の引退後に生まれ、現役当時のことを何も知らなかった大河は「そうなんですか!?」と目を輝かせた。

 1987年3月、東光輝は静岡・焼津市で地元のシャーク石原(三津山)と対戦。石原は東海大一高(現・東海大翔洋高)時代にインターハイ、国体とも3位の成績を残した。東海大にかけて通算50戦(38勝12敗)のアマキャリアがあり、プロでは全日本新人王になっている。その初回だった。東光輝のスイング気味の右フックをテンプルに浴び、石原はまさかのダウンを喫するのである。

 大河に伝えたかったのは(稲元戦でも序盤にダウンを奪うとは思わなかったが)、その先だった。調子を乱したらしい石原と少なくとも採点上は拮抗した試合が続いた。迎えた終盤9回、虎視眈々と狙っていただろう東光輝が再びダウンを奪う。これが物を言い、番狂わせの判定勝ちを収めたのだ。敵地に呼ばれ、のちの日本フェザー級王者で強打を売り物にしたサウスポー・杉谷満(協栄)、ケニア出身の前日本スーパーフェザー級王者イサヤ・イコニ(ヨネクラ)、日本王座の3階級制覇を達成する田中健友(=五代登/当時ヨネクラ)など、強豪の相手ばかり務め続けてきた東光輝がつかんだ約3年ぶりの勝利でもあった。

 沖縄で大河が唯一と言っていいぐらい、熱っぽく語っていたことがあった。

「今、一番に思うのは、子どもと嫁さんにいい暮らしをさせてあげたいなっていうことです。自分が中卒だから、子どもには高校とか大学にも行かせてあげたいし、何かの習い事とか、やりたいと思ったことはやらせてあげたい。家族が少しでもいいから自慢できる父親になりたいんです。仕事はしてるけど、自分にそれができるのはボクシングなのかなって。昔は自分が目立ちたいがために始めたけど、今は家族のためにっていう気持ちが大きいです」

 その彼にとって、同じ18歳でデビューし、33年前に25歳だった父親が奪い、息子は奪えなかったダウンが、何か大切なことを示唆しているように感じられたのだ。

残してくれた答えを探して

トランクスには父の名も(写真/船橋真二郎)

 全4試合で行われる19日(日)の沖縄興行のラインアップを見て、不思議な巡り合わせに心を動かされた。対戦相手の浜崎隆広(仲里)が所属するジムの仲里義竜会長は、東光輝のラストファイトの相手なのである。3度目の再スタートを父親が最後に負けた相手の育てた選手と戦うことになったのだ。また山本幸治会長のジムの松本北斗(シャイアン大嶋)も、大河の次の第3試合に出場することになっている。

 口下手な大河が父親への思いをはっきり口にすることはなかった。それでも試合用のトランクスには「大河」の名前とともに「光輝」と入れていた。そのわけを訊くと「少しは喜んでくれるかなと思って」とだけ、照れくさそうに答えた。連敗の泥沼でもがいていた父親が胸突き八丁の試合終盤に奪い、起死回生の勝利を決定づけたダウンを奪うため、自分に足りなかったものは何か。技術なのか、スタミナなのか、粘り強さなのか、それとも真の意味で強い気持ちなのか。その答えを探し、これから先も追い求めていくことが、父親が息子に残した教えでもあるように思えるのである。

文=船橋真二郎

おすすめ記事

ボクシング・マガジン 2020年7月号


This article is a sponsored article by
''.