地獄の10代を乗り越えて 大日本プロレスには、神谷英慶(かみたに・ひでよし)という選手がいる。現在29歳で、2012年4月に同団体でデビュー。いま大日本のトップグループに位置しているプロレスラーだが、デビューに至るまでに過ごした10代は“地獄”と呼べる環境だった。今年から本格的にデスマッチの闘いに身を投じ新たな一面を見せているが、いま一度、神谷がいかにして信じられぬ環境を乗り越えリングに立っているかをお伝えしたい。あまり振り返りたくない過去なのは間違いない。再び出自が世に出ることも本人了承のもと、この記事をお届けしたいと思う。
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神谷は19歳で過去と決別し、プロレス界に飛び込んだ。出身地である三重県を出る時、小中高の卒業アルバムなどあらゆる私物を捨てたため幼少期の写真もない。松阪市で英慶という勇ましい名前を授かり、この世に生を受けた。数年後に弟も生まれたが、自身が小学生になってすぐ、両親が離婚。小学校時代は苗字が幾度も変わり“転々とした”という。苗字が変わり、学期が変わり「青木英慶」になった時などは出席番号が「9番」でカ行のまま変わらず…という、通常は経験し得ない体験もした。
「あの頃はお父さんが入れ替わることが多数あった。別に入れ替わったからといって、何か思うということもないぐらい。幼少期のこと思うと周りの人はみんな頭のおかしい人ばかりだった気がしますね。1週間ぐらいでいなくなったお父さんもいましたから。何人目のお父さんかは忘れましたけど、トラックの運転手をやってて『仕事行ってくるね』みたいなことを言って出て、そのまま永遠に帰ってくることがなかったり。そういうことがよくありました」
何人もの“父”が行き過ぎては、変わっていく。異常な状況のなか家庭環境を「面白いものじゃないし」と、学校の仲間にも先生にも悟られぬよう明るく振舞おうとし、話すこともなかった。家のことを考えれば複雑なことがあまりにも多すぎたので、それを表に出して人に迷惑をかけぬよう“作り笑い”をする少年だった。自然と身を守るために取った防衛本能だったのかもしれない。転々とした苗字は最終的にもとの神谷に戻し、戸籍上も「神谷」。だが、“最終的な父親”との苗字とは違うものだった。
家のゴタゴタを持ち込まない学校での生活は好きになれた。同時に、そのような環境でプロレスに興味を持っていった。柔道も始めたが、同じようにやり始めた弟のほうが優秀で、祖父母からは「オマエは一生懸命働いて、弟を大学に行かせるんだ」と言い聞かせられ始める。洗脳されたも同然の状態になるほど何度も聞かされ、結果、その言葉に動かされるように生きていく10代だった。
高校生になると、また不幸が襲い始める。高校1年生の時、母が倒れ大腸がんに。2年になると父が脳内出血でダウン。一命は取り留めたものの、体に障害が残ってしまう。母方の祖父母に面倒を見てもらい、自ら毎日弁当を作り夕飯の支度もするようになった。父が回復して退院してからは父の家で生活するも、母は高校3年になると亡くなってしまった。
人間としてグレてもおかしくない環境ながら、そうはならず。理由について神谷は「半分あきらめ気味です。僕はドライなんですよね。そういう意味では可愛くない。仕方ないなと、淡々と受け入れてしまう」という。グレなくても被害者意識が生まれたり、無気力になりかねない状況。でも、神谷は知っていた。人間が生まれ育つ環境は、自ら選べない。絶望的な何かがあるのなら、大切なのはそこから脱出しようとする意志の力であることを。
自分のために頑張れる喜び それが、神谷にとってはプロレスラーになることだった。母は亡くなり父も病気。進路を選ぶ余裕もなかったというが、身長が伸び出したことで少しだけ「プロレスラーになれるんじゃないか」と思い始めた。そこで呪文のように頭を回っていたのが、祖父母から言われ続けた「オマエはいい会社に入って稼いで弟を大学にいかすんだ」との意識。高校時代はアルバイトをしながら空いてる時間は真面目に勉強に費やし、高校2年には全国模試の結果から大学に行けるだけの学力を備えていることがわかった。しかし、大学にはいかず就職を選択。卒業後はパン工場で働き始めたが、衝動的に大日本の入門テストを名古屋で受けた。
これは不合格になってしまったものの、ずっと「弟を大学に」という呪縛のなかで生きてきた神谷にとって、大きな行動に出たことは思い切った決断だった。弟の引き立て役になろうとしていた自分自身に我慢の限界が来て、スポーツジムに入会するなどより本気で取り組み、2回目のテストで合格を飾った。
「家にいても楽しくないし、働いてても、それは自分がしたいと思って働いてるわけじゃない。一応努力して会社に入ったけど、その努力は自分のための努力じゃない気がしてきました。よくよく考えたら、自分のために頑張ってきたことってない。じゃあ、少しは自分のために頑張ってみようと思って、1年間、体を鍛え直したんです」
ある意味、家庭環境に屈していたところ、殺してきた自我が呼吸を始め、ようやく訪れた“自分のために頑張る”は、神谷に尋常ではないパワーをもたらした。
「私利私欲となってしまうかもしれませんけど、自分のために頑張るって気合の入りようが違うように感じました。夜勤のあとでも練習したり、必死になりましたね」
大日本入団が決まり、もう過去を切り捨てるつもりだった神谷は合格を祖父母には伝えず、父にだけ伝え許可を得た。その後、大日本の登坂栄児社長に“黒天使”沼澤邪鬼を加え、三重で父を交えて面談。そのさい、神谷は号泣していたという。
「こういう家庭環境で来たんで、絶対にここには帰ってこないだろうと。祖父母には言わずに来たし、親も障害がありまして金銭面で頼ることはできない。もう帰ってくることはないと、元から少なかったものを全部処分しました。すごい嬉しかったんです。いままで自分のために頑張ったことのなかった人間が、自分のことを頑張って結果を出したのが、すごい嬉しかった。純粋に自分のことで頑張ったのは、その時が初めて。いつも頑張らされて、頑張ってきた。結果的に同じ『頑張った』でも、動機が明らかに違う。そういう意味で、すごく嬉しかったです」
面談中、止まらなかった神谷の涙は未来への19年分の悔恨も混じった“嬉し涙”だった。
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そこから神谷は冒頭に書いたように、2012年4月にデビュー。鍛錬を止めず、2016年7月の両国国技館で岡林裕二を破り、BJW認定世界ストロングヘビーを初戴冠。橋本大地とタッグ「大神」を結成し、2人で2017年、2020年と大日本最侠タッグリーグを優勝。自団体では関本大介、岡林らと闘いを重ね佐藤耕平、石川修司、鈴木秀樹らの猛者たちとも激闘を紡いできた。いまは真のトップを目指し、さまざまな経験をしている最中。
今年は大日本の売りの一つであるデスマッチ戦線に飛び込み、シングルリーグ戦「一騎当千」出場。神谷の公式戦は4月3日のツインメッセ静岡から始まる。
両国で初めてシングルベルトを巻いた神谷は「プロレスやっててよかった! 続けててよかった! そして、生きててよかった!」と叫んだ。その意味は生い立ちを思う時、いまも深く心に刺さる。帰る家は、ない――神谷は、プロレスに人生を懸けている。
<週刊プロレス・奈良知之>