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2021-06-04

【連載 名力士ライバル列伝】旭國が語る「我が心のライバルたち」前編

不屈の闘魂で大関を21場所も務め上げた旭國

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無類の闘志と卓越した技で、多士済々の時代を生き抜いた名力士たち。
元三重ノ海の石山五郎氏、元旭國の太田武雄氏、元増位山の澤田昇氏に、名勝負の記憶とともに、しのぎを削った男たちとの思い出を聞いた。

「闘魂」の裏に、母への思い。あきらめない心が強くする

大相撲の世界を目指し、北海道の小さい村から上京、立浪部屋の門をたたいたのは中学3年の2学期でした。そこから4回も新弟子検査に落ち、頭にタンコブを作って背伸びして「はい、173」でようやく合格したのが、三重ノ海と同じ昭和38(1963)年名古屋場所。それまで、後から入ってきた新弟子たちに追い越されては悔しい思いをしてきましたが、でも、その1年間は私が相撲界で生きていく上での土台をつくってくれた、貴重な時間でもありました。

それは、師匠の先代羽黒山(元横綱、当時立浪親方)さんからの直接指導があったからです。夕方、学校から帰ると一緒に土俵に下りて、「こうやってやるんだよ」と四股の踏み方をみっちり教わる。下半身が柔らかく、足を高々と上げる伝説の横綱の四股は、それはもう美しいものでした。ひとしきり汗をかいたあとは、風呂で背中を流しながら、「ワシも風呂屋で働いてたんだ」などと昔話や教えを聞く。のちに十両に上がるときにも化粧廻しを用意していただいたし、本当にかわいがってもらいました。

それでも、60人も力士のいる大部屋での日々は厳しいものでした。朝4時には起きて土俵に下りなければ満足に稽古もできないし、寝る場所は廊下。兄弟子からの嫌がらせも多くて、これは早く強くなって出世しないと、つぶれてしまうぞと思った。つらくてやめようと、電車に乗ってグルグル回りながら思い詰めたこともありましたが、やっぱり、田舎から送り出してくれた母が悲しむことを思えば、ナンボつらくても我慢しなくちゃいけないと。

ストレスから幕下時代に膵臓炎を患ってからは、十数回も入院して、点滴を打ち続け、満足に食事も取れない、体も太らない。それらを乗り越え、土俵に向っていけたのも、やはり母を悲しませたくないという強い気持ちがあったからこそ。それが、私が好んだ「闘魂」という言葉の裏にはあったんです。

強くなるのは、とにかく稽古しかない。同部屋の黒姫山や同門(高島部屋)の大受を相手に頭かららぶちかまし。まあ痛いのなんの(苦笑)。目から火花が飛び散り、終わって額に手を当てたら、血が噴き出ていたということもありました。巡業先でも貴ノ花、三重ノ海、魁傑、増位山、大受らとは本当によく稽古をしました。山稽古をしていると、巡業部長の二子山親方(元横綱初代若乃花)から「旭國!」と、いつも本土俵に呼び出されて二子山勢と三番稽古。彼らとは相性が良かったので、目の敵にされていたのかも知れませんが(笑)、二子山さんや、尾車さん(元大関琴ケ濱)など、他の部屋の親方衆にもかわいがっていただいたのも、小さい体で一生懸命稽古をする姿を見てくれていたからだと思います。(元大関旭國=太田武雄氏。続く)

『名力士風雲録』第17号三重ノ海 魁傑 旭國 増位山掲載

初土俵からの出世は三重ノ海(後方)をリードしたが、十両昇進は同じ昭和44年春場所だった
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