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2021-11-04

25歳でWWWF世界ジュニア奪取の秘話!「控室に戻ったらシーンとしてて、鋭い視線が突き刺さってきた」藤波辰爾が語る海外武者修行時代<6>【週刊プロレス】

WWWF世界ジュニア王者となった藤波辰巳

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 海外遠征の集大成といえるのが、WWWF世界ジュニアヘビー級王座奪取(1978年1月23日=現地時間、米ニューヨーク、MSG)。日本ではまだ無名の選手が、世界の檜舞台で成し遂げた快挙。現在に例えれば、大谷翔平級の活躍。25歳の青年が一夜にしてスターに駆け上がった瞬間だった。
     ◇        ◇        ◇
 日本を発って2年半、藤波辰爾にビッグチャンスが訪れた。WWWF(当時)が復活させたジュニアヘビー級王座への挑戦だ。会場はプロレスに限らず室内スポーツ、エンターテインメントの世界的な殿堂、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン。思いがけない大舞台に藤波はタンパのカール・ゴッチの下で集中キャンプを張ってから、雪の舞うニューヨークに飛んだ。

「会場がマディソン・スクエア・ガーデンでしょ。もう夢心地でしたね。『やった!』という感じで。僕はその頃、ノースカロライナからテネシー、ジョージア、バージニアあたりをサーキットしてて。日本を離れてかなりたってたから、大きな会場でも試合しましたけど、やっぱりMSGっていうのは名前を聞いただけでもゾクゾクしましたね。

 あの特別な雰囲気っていうのは、リングに立ってみないとわからないでしょうね。もう、身震いしましたよ。でもそれが最終目標じゃないから、やっとMSGに上がれたとかいう感激はないんです。ファンの思いとは違った部分が先に頭をよぎっちゃって。試合前はもう、“失敗しちゃいけない”とか“ここで俺はどんな動きができるんだろうか”とか。そっちの方を心配しちゃって。しかも日本から中継担当も来てましたから」

 なみいる大男がリングに上がるアメリカのプロレス。当時、ジュニアヘビー級はどういう位置づけだったのか? そこでオリジナルの必殺技、ドラゴン・スープレックスを初披露した。

「アメリカのプロレスですから多少のショー的な要素はありましたけど、今とは違って飛んだり跳ねたりもないし、まだレスリングの要素が強かったですね。日本に帰る前だからドラゴンロケットもやったことないし、ドラゴンスクリューもしてなかった。

 ただ、カール・ゴッチとやってる部分だけは頭にあって。何をフィニッシュにって思ったときに、フルネルソンからのスープレックスっていうのが出てきた。僕の頭に中をよぎったのはそれだけ。カール・ゴッチに言われたことを頭の中で思い出してたら、それが出てきただけ。それがまた、うまく決まったからよかった。中途半端に崩れたりとか、ヘタに失敗したりとかせずにね。とにかく、あの技が僕の精いっぱい。だってカール・ゴッチもドラゴン・スープレックスはそれまで見たことなかったんだから(苦笑)。

 こんなスープレックスがあるって言われただけで。頭の中でイメージしてただけで、僕もやったのはMSGが初めて。もうぶっつけ本番ですよ。あんな危険な技になるとは、自分でも思ってなかった。勝ったけど、その瞬間、2万人を超えるMSGのお客さんが水を打ったようにシーンとなったからね。格闘技とプロレスはまた違った部分があってね。

 (プロレスでは)相手がモロにケガをするような危ない技はやろうとしない。だけど思いつきもしない技を自分がやったもんだから会場が静まり返って。ちょっとしてからだね、拍手が起こったのは。最後はスタンディング・オベーションで称えてくれたけど」

 若き新王者誕生。WWF(当時)にとっても新時代の扉を開いた勝利となったはずなのだが、バックステージでも藤波へ向けられた視線は冷ややかなものだった。

「控室に戻ったら、新チャンピオンになったことで祝福されるかなって思ったんだけど、みんな遠巻きにこっちを見てて。ブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ミル・マスクラスはいたかな? あとエディ・グラハムとか、もう雑誌で見るスターがいたんだけどね。控室に入ってもシーンとしてて、鋭い視線が突き刺さってきて。それだけ危険なことをしたっていう。いまだにそれを思い出すね」

 未だ見たことのない技で藤波は危険人物として警戒されることになった。

「まぁ、僕の後ろにカール・ゴッチがいるわけで、それがまたそういう警戒心を強めたっていうかね(苦笑)」

(つづく)

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