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2022-02-15

地方ビッグマッチの定番カードとなった北米タッグ最後の防衛戦は…新日本プロレス歴史街道50年<13>【週刊プロレス】

長州力の頭をなでるアントニオ猪木の貴重な写真

 NWFヘビー級に次ぐナンバー2の王座として新日本マットに定着した北米タッグ。都内大会場ではエースであるアントニオ猪木が強豪外国人選手を迎え撃つシングル王座の防衛戦が主体だったが、北米タッグも団体の看板タイトルらしく地方都市の大会場でタイトル戦が組まれていた。今回は北米タッグ戦が開催された会場に目を向けてみよう。

 1973年8月24日(現地時間)、アントニオ猪木&坂口征二がロサンゼルスで北米タッグに初挑戦。勝利したものの3本目が反則勝ちだったことでベルトの移動は認められなかった。その4か月後(同年12月7日)、北米タッグのベルトが日本に初上陸したのは“西の聖地”大阪府立体育会館だった。

 しかし、ここでも反則で逃げられ王座奪取ならず。その3日後、猪木はジョニー・パワーズからNWFヘビー級王座を奪取。北米タッグ戦はその前哨戦的な役割も果たしていた。

 翌1974年6月7日、札幌での挑戦でも王者チーム(カール・フォン・ショッツ&クルト・フォン・ヘス)を撃ち漏らし、再びロスまで出かけ4度目の挑戦でようやくベルトを手にしたが、結果的に新日本プロレスにタッグ王座戦の歴史を開いたこの両都市は、北米タッグ戦が定番カードとなった。

 最終的に大阪府立で9回、札幌中島で5回、ほかには愛知県体育館で6回開催されている。この3都市で計20回。海外も含めて北米タッグ戦は50回を数えているわけだから、実に40%を占めているわけだ。

 ほかに複数回開催されているのは、福岡九電記念体育館と蔵前国技館が各3回、広島県立体育館と熊本市体育館が各2回。海外ではロス(オリンピック・オーデトリアム)が6回。ほかにはブラジル、米バージニア州(ノーフォーク)が各1回。WWFの本拠ともいえるMSGでも1度開催されている。

 それ以外でも仙台(宮城県スポーツセンター)や岡山(武道館)、横浜(文化体育館)、那覇(奥武山体育館)、宮崎(南九州学院大学体育館)と県庁所在地がズラリと並ぶ。逆に都内は少ない(ほかに都内大会場では東京体育館が1度)。後楽園ホールはわずか1回の開催で、ここからも看板王座として大切に扱われてきたことがうかがえる。

 しかしこれも1979年あたりから変わってきた。というのも、藤波辰巳が凱旋帰国してドラゴンブームを巻き起こしたことで、WWFジュニアヘビー級がナンバー2の王座になったからだ。

 函館、高知、後楽園で防衛戦が組まれ、中継されないことも出てきた。そしてIWGPの理念に賛同して封印される直前、最後の防衛戦がおこなわれたのは会津体育館(会津若松市)。挑戦者はチームはタイガー・ジェット・シン&ドン・ムラコ。

 シンこそ上田馬之助とのコンビでベルトを獲得するなど北米タッグの歴史に深くかかわっているが、パートナーがムラコでは即席コンビの感は否めない。結果は王座防衛。最後はベルトを新日本マットに定着させた坂口が、逆エビ固めでムラコを仕留めて北米タッグの歴史の最終ページに名を記した。
(この項おわり)

橋爪哲也

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