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2022-03-02

アントニオ猪木の逆ラリアット誕生秘話…新日本プロレス歴史街道50年(23)【週刊プロレス】

アントニオ猪木vsスタン・ハンセン

 1977年から1981年まで、1978年には来日していないので実質3年間に及んだ燃える闘魂と不沈艦の闘い。そのハイライトが1980年9月25日、広島県立体育館での一戦で繰り出された逆ラリアットだった。

 いまやラリアットの相打ちは見慣れた光景になってしまっているが、暗黙の了解を打ち破って初めて繰り広げられたことで驚ガクの一撃になるとともに、そこまでしなければ勝負が決まらないことで両者の一連の激闘は名勝負に昇華していった。そうなったのは、そこに猪木ならではの“プロレス頭”が隠されていたからこそ。そしてハンセンも必殺技の効力が薄れたことで対抗策を編み出した。しかし…。

 一連のスタン・ハンセンとの闘いの中でアントニオの気が繰り出した逆ラリアット。一瞬のひらめきで繰り出されたと思われがちだが、実はそうでなかった。大阪決戦を終えてから猪木は、試合前の練習で坂口征二をリングに上げ、ラリアットを放ってくるように指示し、繰り返しタイミングを計っていた。決して思いつきで、とっさに腕が出てあのシーンが生まれたわけではない。

 ハンセンのラリアットがほかの選手が使うのと異なるのは一撃必殺なのはもちろん、一つ間違うと首を負傷する恐れがあるほどの破壊力を秘めていること。実際、ハンセンが新日本に定着して以降、猪木はもちろん、坂口征二、長州力がハンセンの首折り弾によって欠場を強いられている。そのため各選手は、ハンセンの腕が当たる前に上半身をのけぞらせてダメージを軽減させていた。

 しかし逆ラリアットを放つには、自らハンセンに突っ込んでいかなければならない。少しでもタイミングがズレてしまえば大きなダメージを受けてしまう。まさにイチかバチかの危険な賭け。“肉を切らせて骨を断つ”“虎穴に入らずんば虎子を得ず”。それを1回で成功させてしまうのだから、猪木の格闘センスは常人離れしている。

 翌1981年、両者は封印前にNWFヘビー級王座を懸けて2度対決。その後、『第4回MSGシリーズ』の公式戦と優勝決定戦で一騎打ちをおこない、逆ラリアットから1年を経た9月18日、場所も同じ広島県立体育館で最後のシングル対決が組まれた。

 最後のNWF戦(4月23日、蔵前国技館)では猪木が勝利しているが、手の内を知り尽くしているだけに、ありきたりは戦法では勝てなくなってしまっていた。それはハンセンも同じ。ラリアットのカウンター砲ではもはや猪木には通用しなくなっていた。そこで編み出したのが、相手がロープから返ってくるところでドロップダウンして(マットにうつ伏せになって)突進をかわし、立ち上がって振り向きざまに放っていく戦法。まるで潜水艦が突然海上に浮上して一撃を放つ格好だ。

 ハンセンは広島決戦前夜(同年9月17日)、大阪府立体育会館でタイガー戸口相手に試し切り、完璧に決めてフォールを奪った。ただ前年の逆ラリアットと異なるのは、大一番を前に秘策を公開したこと。広島決戦でもこの形でのラリアット決まったが、猪木が警戒していたこともあってフィニッシュには結びつかなかった(結果は両者リングアウト)。結局、ハンセンは猪木からピンフォール勝ちを奪う唯一のチャンスを逃してしまったことになる。

 実質3年間で24回のシングル対決。短期間に集中して闘ってきたが、顔を合わせるたびに異なる闘い模様を繰り広げてきたからこそ次々と名勝負が生み出された。最後のシングル対決の直後、ハンセンはアンドレ・ザ・ジャイアントと70年近くに及ぶ日本プロレス史の中でも外国人対決でナンバーワンに輝く伝説の闘いを残して全日本プロレスに移籍。そして一方の猪木は、はぐれ国際軍との遺恨対決に引きずり込まれていった。
(この項おわり)

橋爪哲也

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