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2022-03-09

日本マット界の留学生プロレスラー第1号は? 新日本プロレス歴史街道50年(25)【週刊プロレス】

日本マット界における留学生第1号のドナルド・タケシ

 新日本プロレス育てたトップ選手はなにも日本人だけに限らない。最近ではカール・アンダーソンやプリンス・デヴィット(現フィン・ベイラー)、バッドラック・ファレ、タマ・トンガ、ジュース・ロビンソン、デビッド・フィンレー、ジェイ・ホワイトのほかLA道場勢など留学生を受け入れ、新日スタイルで外国人レスラーを育てている。そういった制度は日本プロレス時代から採り入れられてきたが、新日プロほど多くのトップクラスを輩出した団体はほかにない。

 日本マット界における留学生第1号は、日本プロレスにやってきたドナルド・タケシ。力道山とも闘った父、レオ・コン・シンの「シンガポールでもプロレスブームを」という夢を叶えるべく、1968年5月にシンガポールから来日して入門。兵役のため1971年9月にいったん帰国、1974年1月に再来日して新日本プロレスの一員として前座戦線をわかせた。同年暮れに帰国したままで、結局、父の夢は果たせなかった。

 純粋に新日本の留学生第1号となったのがイワン・ゴメス。1974年12月、新日本がブラジル遠征を行った際に、アントニオ猪木に挑戦を表明。まだバーリ・トゥードなる言葉など知られてない時代。猪木はゴメスに新日本の一員になることを提案。ゴメスも新日本スタイルのレスリングに興味を持ったことで、留学生として来日した。

“キング・オブ・スポーツ”を打ち出す新日本にとってもバーリ・トゥードは目新しいテクニック。互いに技術交流をおこなうなかで試合にも出場。アキレス腱固めを武器に魁勝司(北沢幹之)、藤原喜明、木村聖裔(健悟)、荒川真、栗栖正伸、大城大五郎、柴田勝久など中堅クラスに無敗のままブラジルに戻った。

 1976年8月、新日本は再びブラジル遠征をおこなった。それはゴメスの凱旋マッチともなり、リオデジャネイロのマラカラン・スタジアムでウイリエム・ルスカとのシングルマッチが組まれたがケンカマッチに発展。ゴメスは9針を縫う負傷を負って入院。また判定を巡って暴動寸前となった。その後、ゴメスは引退して指導者になった。1990年3月、腎臓病のため死去。50歳だった。

 留学生第2号はバッドニュース・アレン。1976年、モントリオール五輪柔道銅メダリスト。アメリカ人初の柔道五輪メダリストとなり、1980年のモスクワ五輪での金メダル獲得も期待されたが、坂口征二との柔道ジャケットマッチ(1977年10月25日、日本武道館)で初来日。敗戦後、新日本に留学して本格的にプロレス転向を果たす。アレンの場合は道場に寝泊まりせず、外国人レスラーの常宿だった京王プラザホテルから道場に通った。

 バファロー・アレンのリングネームでプロレスデビュー。中堅相手では敵なし。無敗のまま約1年間の留学期間を終えるとWWF(当時)、西海岸をサーキット。1980年からスキンヘッドに変貌して、バッドニュース・アレンのリングネームを変えて新日本に定着。逆輸入レスラー第1号に。プロデビューの相手だった坂口の保持する北米タッグに何度も挑戦したほか、全日本プロレスから移籍してきたアブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーとして活躍した。

 1982年からはカナダ・カルガリー地区を拠点に。現地に遠征してきたラッシャー木村のノドをラリアットで潰したことは有名。1988年からはバッドニュース・ブラウンのリングネームでWWF入り。ゲットーブラスターの名で延髄斬りを切り札に大暴れ。何度もハルク・ホーガンに挑戦した。

 WWF離脱後は新日本に復帰するとともにカルガリー地区にも定着。1992年にはUWFインターナショナル、1997年には新東京プロレスに来日。暴走王となった小川直也との対戦をアピールしたが、実現はしなかった。

 1999年に古傷のヒザを手術して引退。その後はカルガリーで警備員として勤務していた。一時死亡説が流れたこともあったが誤報。2007年3月、急性心不全で他界した。享年63歳。
(つづく)

橋爪哲也

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