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2022-03-23

マスクド・スーパースターの告白「全日本からの誘いもあった」新日本プロレス歴史街道50年(31)【週刊プロレス】

マスクド・スーパースター

 前回に続いてマスクド・スーパースターの20年前のインタビュー。すでに日本マットからは10年ほど離れていてセミリタイア状態。ジョージア州アトランタ郊外で教師をしていた。ちょうどWWF(現WWE)が『スマックダウン・ツアー』で日本に乗り込んでくる直前。日本マットとWWEについて語ってもらった部分をお届けする。
※記録、表記は当時のまま

――やはり印象に残っているのはアントニオ猪木との一連の闘いですか?

スーパースター そうだね。マスクを懸けて闘ったこともあった。彼は素晴らしいアスリートだったから、常にいい試合ができたよ。でも私たちのスタイルだと、何度も闘っているとファンに飽きられる。だから、いろんなサイドストーリーで盛り上げた。私のマネジャーだったボリス・マレンコが、葉巻でイノキの目を焼いたこともあった。あれはファンの怒りを買ったね。モハメド・アリと闘ったことでアメリカでも有名なイノキと何度も闘えたことは、私の誇りだ。彼が入場してくるだけでファンは「イノキ、イノキ」と叫ぶだろ。それを聞くと、敵であるにもかかわらず、体が震えたもんだよ。そんな経験はアメリカでもない。彼によって、私もレスラーとして成長できたんじゃないかな。そんなアメリカンレスラーはたくさんいたと思う。ハルク・ホーガンだってそうだろ?

――日本では新日本プロレス一筋でしたけど、全日本プロレスから誘われたことはなかったですか?

スーパースター あったよ。でも、ババから直接というんじゃなくて、友人でもあるスタン・ハンセンを通じてだけどね。彼がオールジャパンに移ってしばらくしてからかな。当時、私の家とスタンの家は近所だった。それもあって声を掛けてきたんだろうけどね。でも、私とニュージャパンはいい関係にあった。ニュージャパンでは気持ちよく闘えたし、ギャランティーや扱いに関して何も不満はなかったから、「オールジャパンに行くつもりはまったくない」と答えたよ。その後も何回か誘われたけど、私の答えは変わらなかった。スタンはオールジャパンに行くことでビッグマネーを稼いだんだから、彼の選択は間違ってなかった。だけど、私の選択も間違ってなかったと思うよ。

――ジャイアント馬場と闘ったこともありましたね。

スーパースター エッグドーム(東京ドーム)だね(90年4・13『日米レスリング・サミット』)。ババとアンドレ・ザ・ジャイアントが相手だった。アンドレもいい友人で、私の家に何度も遊びに来たよ。あの時はもうコンディションもよくなかったし、残念ながらまぁまぁの試合だった。でもババとアンドレ、2人のスーパービッグネームとあれだけのファンの前で闘えたのはいい思い出だ。

――実は、あの試合で2人は初めてタッグを組んだんです。

スーパースター そうなのかい? そんなメモリアルマッチの相手を務められてうれしいよ。

――それにWWF(当時)は日本に上陸して初めて成功を収めた記念すべき闘いでもありました。今度、WWFは単独で日本に上陸します(2002年3・1横浜アリーナ『スマックダウン・ツアー』)。

スーパースター 日本のファンにWWFのスタイルは受け入れられるのかな? 私には、今のWWFスタイルが日本の厳しいファンの目に耐えられるとは思えない。もちろんスタイルを変えたらわからないけど。今のWWFは成人向き。バイオレンスだし、ポルノグラフィック。私には6歳にいる孫がいるんだけど、とても見せられたものじゃない。

――あなたがWWF入りした頃、いろんなキャラクターの選手がいましたけど、リングに上がればレスリングをしていました。まぁ、レスリングができない選手も一部いましたけど。

スーパースター 確かに。でも、そういう選手は長続きしなかっただろ? あの頃はリング上で15分もしゃべったりしなかった。今はトークが15分、レスリングが3分。試合以外は素晴らしいけど、ゴングが鳴ったら見てられない。毎回、同じような試合ばかり。レスラーが頭を使わなくなった。確かにビンス・マクマホンが優秀なプロモーターだ。しかし、それはレスリング業界のためによかったかどうかは何とも言えない。昔、ディープサウスといわれたテリトリー、フロリダ、テキサス、テネシー、ジョージアには本当のレスラーがいた。ミスター・レスリングⅡやディック・マードック、エディ・グラハム、ヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ジャック・ブリスコ……そして私もね(笑)。
(つづく)

橋爪哲也

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