72年の旗揚げ以来、ストロングスタイルを打ち出してきた新日本プロレス。その一方で、通常のシングルマッチ、タッグマッチ以外にもさまざまな試合形式を採用してきた。最近でこそ3WAYや4WAYマッチ、イリミネーションマッチが日常的に組まれいているが、昭和の時代は“完全決着”をうたっての特別ルール。それはアメリカでおこなわれている形式を輸入したものもあれば、新日本が企画・考案したルールもある。そういった闘いだからこそ名シーンも生まれた。 新日本プロレスで初めて変則ルールが採用されたのは、73年10月14日、蔵前国技館でおこなわれたタッグマッチ、「世界最強タッグ戦」と銘打たれたアントニオ猪木、坂口征二組vsルー・テーズ、カール・ゴッチ組。試合は90分3本勝負で争われた。
1本勝負、3本勝負の違いこそあれ、通常、試合の位置づけ、選手のキャリアなどによって、10分、15分、20分、30分、45分、60分の時間制限で闘う。タイトルマッチで61分、あるいは引き分けを排除すべく時間無制限が採用されることもあるが、90分は異例。「60分では時間切れで決着がつかない可能性がある」こともあるが、この一戦はむしろ、鉄人と神様、燃える闘魂と世界の荒鷲、4選手が世界最高峰の技術を思う存分ぶつけ合い、それをファンに堪能してもらおうとの意図が感じられた。
のちに90分1本勝負は、74年3月19日、蔵前国技館でおこなわれた猪木vsストロング小林のNWF世界ヘビー級選手権試合(当時)、79年11月30日、徳島市立体育館でおこなわれたボブ・バックランドvs猪木のWWFヘビー級選手権試合などで採用されている。
本当の意味で変則ルールで闘ったのは73年11月30日、福山市体育館でおこなわれたアントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シン。ちょうど再来日を果たしたシンが新宿伊勢丹前襲撃事件を起こしたシリーズで、その2週間前(同年11月16日)に札幌中島スポーツセンターで一騎打ちをおこなったものの、シンの反則暴走で逃げられた猪木が、遺恨がさらに深まる中で完全決着をつけるべく実現した(両者4度目のシングル対決)。
目玉となるカードがシリーズ中盤の地方大会でおこなわれたのは、猪木には終盤に坂口と組んでの北米タッグ(王者チームはジョニー・パワーズ、パット・パターソン組)、そしてパワーズの持つNWF世界ヘビー級王座への挑戦が決まっていたため。シンと決着をつけて、すっきりした気持ちでタイトルマッチ2連戦に望みたい思いから。
さて、ランバージャックデスマッチとは、カナダの林務作業員たちの間でおこなわれていた決着方法がルーツと言われる。リングサイドを大勢の選手が取り囲み、場外に転落した選手をリングに押し上げて逃げ場をなくして闘わせるルール。いってみれば大勢が見てる前で闘う形。そこにリングが設置されていると考えればわかりやすい。
あくまでセコンド陣は逃亡を阻止するために構えている壁のような存在。しかしリング内に乱入して攻撃を加えれば反則になるが、リング外では「リングに押し上げるため」という言い分が通用する。実際にはその盲点を突いて、仲間の選手がリング外に転落すれば取り囲むようにしてガードしてダメージから回復する時間を与えたり、敵の選手が転落すれば攻撃を加えるなど、セコンド陣入り乱れての乱撃戦が定番になっている。
そうなるとやはりケンカマッチの展開に。そのなかでも猪木は、怒りのナックルからのバックドロップでシンをピンフォール。これで決着がついたものと思われたが、両者の遺恨はますます深まっていった。
(つづく)
橋爪哲也