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2024-01-26

「地道に信頼関係を築いていって裏切らないのが馬場さん」阪神淡路大震災2日後に開催された全日本大阪大会の舞台裏3【週刊プロレス歴史街道・大阪編】

ジャイアント馬場

 阪神淡路大震災2日後におこなわれた全日本プロレス大阪大会。選手・スタッフももちろん初めてのシチュエーションでの開催とあって、試合開始前は重苦しいムードさえ漂っていたが、試合が始まるといつもと変わらぬ熱戦を展開。観客も次第に盛り上がり、全日本らしい空気に変わっていった。

 そして迎えたメインイベント。初めて3本のベルトを手にした王者・川田利明にとっては初防衛戦。団体にとって初めて海外武者修行を経験せずに練習生からメインイベンターにのし上がってきた小橋健太の王座奪取を期待するムードも高まっていた。

 5年7カ月ぶり、四天王対決としては初となる“大阪三冠戦”は互いに譲らず、60分フルタイムを闘い抜いた。プロレスの底力を見せつけた。
(週刊プロレス本誌1598号、2011年10月12日付掲載記事を加筆・編集。文中敬称略)

     ◇      ◇      ◇

 振り返れば大阪は、1988年4月15日、ブルーザー・ブロディと天龍源一郎の闘いで、初めてインターナショナル、PWF、UNのベルト統一に動いた場所である。結果は30分0秒、両者リングアウト。その1年後には三冠を統一したジャンボ鶴田が、天龍を相手に初防衛戦をおこなった(89年4月20日)。パワーボムで失神KOする衝撃の幕切れだった。その意味でも、大阪から三冠ヘビー級王座の歴史は刻まれていったといえよう。

 そこにさらに記される、震災2日後の三冠戦。発表された観衆は5600人。当時は入場ゲートやステージは設営されておらず、プロレス開催時の最大収容数は6000人。数字だけ見れば9割方埋まった計算になるが、実際は空席も見受けられた。おそらく前売りチケットの売れ行きから発表された数字だろう。逆に、それだけ被災の大きさを物語っている。

 セミファイナルで三沢光晴を交えて久々に組まれたジャイアント馬場とジャンボ鶴田の師弟コンビが大いに会場を盛り上げて、メインの三冠戦につないでいった。結果は三冠戦史上初の60分フルタイム。それは同時に1本勝負のシングル対決でも、全日本史上初とだった。

 大きな混乱もなく大会は終了。伊藤正治氏はプロモーターとして「“こんな時期にプロレスなんて”という人もいたでしょうけど、終わってから『今まで見た中で一番の試合でした』とか『震災で落ち込んでいましたけど勇気をもらいました』などと直接言ってくれたファンもして、開催して正解でした」と振り返った。

「その後、馬場さんが被災者を家を訪れたり、淡路島でチャリティー大会を開催したりでファンが増えていったのは確かです。ファンのことを考えての地道な積み重ねが全日本なんだなあって思いました」

 これを機に、その後も大阪では年1回のペースで三冠戦が組まれるようになり、数々の激闘が繰り広げられた。川田は腕を骨折しながらも三沢からベルトを奪ったという試合もあった。四天王全盛期は大阪府立のメイン競技場で年5~6大会が開催され、いずれも超満員になったほど。

「いい試合をしてくれれば、先行発売の売れ行きも良かったですね。そういう意味で四天王時代は、ファンとの信頼関係がうまく作用していました。付き合いで1回や2回はチケットを買ってもらえても、団体や選手に魅力がないと、次も見に行こうとはならない。試合が面白ければ1枚が2枚、2枚が4枚と少しずつでも増えていく。いくら選手にいい試合をしてもらいたくても、お客さんが入ってないなら100%以上の力は出ないでしょう。90年代はお客さんが盛り上がって、それに選手がこたえる。お客さんも余韻が冷めないうちに次回のチケットを買おうってなってました。カードも発表されてないのにチケットを買うって、それだけ信頼関係があってこそだと思います。大阪のファンは特に厳しいから、ちょっとでも期待に沿わないカードだったりすると敏感に感じて、“もういいわ”ってなるんです」と各地で満員続きだった秘密を明かしてくれた。それは「ファンが一番のスポンサー」と繰り返していた馬場社長の信念でもある。

「昔の新日本のように期待を持たせすぎて、いい時と悪い時のギャップが大きいっていうのも何ですけど(笑)。でも、終わった直後は批判されても、“次こそは”って思わせるは猪木さんのすごさでしょうけどね。でも、地道に信頼関係を築いていって裏切らないのが馬場さん時代からの全日本」

 伊藤氏は最後に、営業としてBI両社長の下で敏腕をふるった経験から、両巨頭の性格の違いを明かしてくれた。

<プロフィル>
伊藤正治(いとうまさじ) 1951年12月10日生まれ、宮城県栗原市出身。旗揚げ戦前の新日本プロレスに入門。浜田広秋(グラン浜田)、関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が先輩で、すぐ下の後輩が藤原喜明、小林邦昭。バトルロイヤルでプレデビューするも、ヒジの負傷で正式デビューを待たずしてプロレスラーを断念、営業に転向する。当時から大阪を担当。営業部を独立させる形で大塚直樹氏が新日本プロレス興業を設立。その後、ジャパン・プロレスが旗揚げされると、その流れから全日本プロレスの興行を手掛け、長州力vs天龍源一郎シングル初対決や長州vsジャンボ鶴田の大阪城ホール大会などを担当。Uターンでジャパン・プロレスが分裂すると、永源遙の勧めで独立、武藤敬司社長時代まで全日本の大阪大会のプロモーターを務める。その後、新日本「FANTASTICA MANIA」大阪大会をプロモートするも、コロナ禍で中断されたことと70歳を迎えたことで勇退した。

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