close

2024-02-02

【連載 大相撲が大好きになる 話の玉手箱】第16回「癒し」その1

小兵ながら卓越した技能で横綱に昇進した栃ノ海

全ての画像を見る
不慣れ、というのは妙な緊張感を伴います。
大相撲界も新型コロナウイルスの影響で令和2年夏場所が吹っ飛び、巡業もなく、丸々4カ月もポッカリと穴が開いてしまいました。
こんなことはおそらく初めてでしょう。力士たちも、感染を恐れてぶつかり稽古すらできない日が続き、先の見えない不安や、戸惑いできっと心は乱れに乱れ、疲れ果てたに違いありません。
もっとも、年に6回、過酷な優勝争いを繰り広げなければいけない力士たちだけに、心の癒し対策ならお手のもの。
力士たちはどうやって疲れた心を癒し、再生したか。そんなエピソードです。
※月刊『相撲』平成31年4月号から連載中の「大相撲が大好きになる 話の玉手箱」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

引退後に熟睡

出世するのもタイミングが大事だ。巡り合わせが悪いとひどい目に合う。身長177センチ、体重も110キロしかなかった栃ノ海が第49代横綱に昇進したのは昭和39(1964)年初場所後のことだった。
 
現役時代、名人横綱の名を欲しいままにした春日野親方(元横綱栃錦)が初めて育てた横綱で、大相撲界は新しい目玉の誕生に沸き上がったが、昇進した時期があまりにも悪かった。ひと回りもふた回りも体の大きな柏戸、大鵬の全盛期で、栃ノ海が綱取りを決めた場所も優勝したのは大鵬で、しかも全勝だった。ちなみにこの場所の栃ノ海は13勝2敗で、準優勝でもなかった。

待望の綱は張っても苦戦は目に見えていたのだ。このため、師匠の春日野親方は昇進が決まった直後、

「いいかい。もうあとは引退だけだよ。ダメだったらすぐ辞めなくちゃいけないんだよ」
 
と愛弟子に声をかけ、激励しているが、柏鵬の壁の分厚さは想定以上。横綱在位17場所で、優勝は1回だけ。椎間板ヘルニアや右上腕のケガなどもあって3場所連続して8勝7敗に終わり、ハチナナ横綱と悪口を言われるなど、まさに満身創痍、矢尽き刀折れた状態で引退に追い込まれたのは昭和41年九州場所のことだった。横綱になるとき、

「30歳まではがんばる」
 
と心に誓ったが、このとき28歳8カ月。当時の横綱の最年少引退記録になってしまった。
 
この横綱在位中は毎晩、綱のプレッシャーでまともに睡眠もとれなかったそうで、およそ3年間のうち、

「ああ、今日はよかった、よかった」
 
と満足して寝たのは唯一、昇進2場所目に3回目の優勝を決めた晩だけだったという。悔しさいっぱいの引退会見を終えたあとはもう心身とともに疲労困憊の極。崩れるようにフトンに横になると、なんとそれから2日間、食事も摂らず、夢も見ず、眠りに眠ったという。栃ノ海にとって眠ることが最大の癒しだったのだ。

「死んだように、というのはあのことだよ」
 
とあとで話している。令和2年当時、栃ノ海は82歳。生存する横綱経験者の最年長者だった。

月刊『相撲』令和2年7月号掲載

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事