NOAH5・2両国国技館大会が迫ってきた。同大会では最高峰王座GHCヘビー級選手権が組まれ、王者Yoshiki Inamuraにシェイン・ヘイストが挑戦する。本来であれば最高峰王座を懸けた一戦がビッグマッチのメインイベントになるのだが、OZAWAが内藤哲也戦をメインにするように要求。NOAHのX公式アカウントでは4月30日22時までGHCヘビー級選手権試合とOZAWAvs内藤のどちらがメインにふさわしいかという投票が実施されることになった。そんな渦中にいるシェインだが、今年4月にKENTAの“友達”としてNOAHマットに復帰したばかり。2016年にNOAHを離れてWWEに移籍してからは、2022~2024年まで新日本プロレスで活躍していたが、日本中心のキャリアを積んでいない。そこでシェインがいかにしてNOAHにたどり着いてスターダムに駆け上がったのか。プロレス専門誌「週刊プロレス」2013年8月7日号(No.1696)掲載「レスラーヒューマンストーリー」の再録をお届けする。◎ ◎ ◎
のちにTMDKの盟友となるマイキー・ニコルスと同い年のシェイン・ヘイストも、オーストラリア南西部のパース出身だ。マイキーが海岸沿いなら、シェインは郊外に住んでいた。両親と姉、妹の家族構成。父親は大工で母親は専業主婦。すぐとなりには祖父母が住んでおり、幼いころのシェインはふたつの家を行き来して遊ぶ元気のいいこどもだった。
「なにかと親を困らせるこどもだったかもしれませんね。草むらの中で遊んでなかなか家に帰らなかったり、石を集めてきては家の冷蔵庫に入れたり。どうして冷蔵庫なのかわからないけど(笑)」
さらにシェインは、こども時代のユニークなエピソードをつづける。
「わからないといえば、こういうこともよくあったなあ。なぜかバケツを頭に被るんですよ。親にもらったオモチャには見向きもせず、なぜかバケツを持ち出して頭に被る。たいした理由はないんだろうけど、ホント、よくわからないよね(笑)」
生まれはパースだが、父の仕事の都合で何度も引っ越しをした。小学生時代は4、5回、転校。パース以外で2年以上住んだ街はないという。ときにはキャラバンの中で暮らすこともあったとのことだ。
このような生活だとともだちを作りにくそうなものだが、活発なシェインはすぐに転校先の級友たちと意気投合。さまざまなスポーツにもチャレンジした。
オーストラリアン・フットボール、クリケット、サッカー、ホッケー。柔道の練習にも通ったことがある。母親がスポーツ万能だったため、息子にもなにか運動をさせたいと考えていたようだ。
スポーツ以上に、シェイン少年はテレビで活躍するヒーローたちに夢中になった。興味は“バケツ”からヒーローたちの人形に移っていく。
「パワーレンジャー」「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」「GIジョー」「トランスフォーマーズ」などがお気に入りだった。おとなになったらパワーレンジャーになりたいと本気で思うほど、夢中になった。
また、映画の主人公にもあこがれた。当時のパースでは毎週決まった時間にアジアのアクション映画がテレビ放送されており、そこでジャッキー・チェンや日本のゴジラを知った。
プロレスにもまた、シェイン少年があこがれるヒーローの世界があった。ともだちの影響からテレビのプロレスを知るようになり、“マッチョマン”ランディ・サベージの大ファンになった。サベージやハルク・ホーガンのフィギュアを手に入れると、大工の父が木製のリングを作ってくれた。そのリングの中では、サベージ、ホーガン、ニンジャ・タートルズ、GIジョーらがジャンルを飛び越えたバトルを展開していた。
「ハードコアな試合で、フィギュアの首が取れまくったよ(笑)」
その後、“パワーレンジャーになりたい”から、しだいに“プロレスラーになりたい”との気持ちが芽生えるようになってくる。7~8歳のころだろうか、「将来レスラーになるんだ」と周囲に宣言。しかし、シェイン少年の夢は一笑に付された。オーストラリアにはプロレスがないため、どんなになりたくても手段がない。そう考えるのがふつうだった。
ところが、パースの街にプロレスが誕生する。2001年11月、EPW(エクスプローシブ・プロレスリング)が旗揚げ。シェインは観客としてほとんどの大会に足を運ぶようになった。住まいを転々としていた家族だが、その頃にはパースに戻っており、それ以来故郷に定住した。そのことも、シェインには有利に働いた。パースにいれば、とりあえずはプロレスとのコネクションがキープできる。
そこでシェインは、すでにプロレスラーとなっていたマイキーと出遭う。といっても、いちファンとレスラーの関係だ。シェインは客席から、ヒールのマイキーにブーイングを飛ばしていたのだ。
本人がおぼえているかはわからないけれど、野次を飛ばすシェインをマイキーが睨み付けた。このときのマイキーは額から流血。まさかこの人と将来タッグを組み、日本に来ることになろうとは、当時のシェインは知る由もない。
プロレス好きの友人たちとバックヤードレスリングもしていたシェイン。ほかの街に出て本格的な練習をはじめようかと考えていたころに、EPWが活動を開始した。高校在学中のシェインもEPWのレスリングスクールでトレーニングをするようになる。
「バイトでお金を貯めて、EPWのドージョーに通い始めました。練習は週に4回。月曜と火曜の夜、土曜と日曜の朝がボクたちの練習時間でした。もちろんプロの人たちとは別メニューの練習です。コーチの指導の下、練習生は練習生だけでトレーニングをしていましたからプロレスラーに会えるわけではありませんでした」
コーチは、マイキーを教えたデイビス・ストームだった。基本的にはひとりのプロがつくというやり方。ときにはマイキーも練習生たちの様子を見ることもあったという。が、当時のマイキーは、いちファン、いち練習生のシェインに注目することなどなかったようだ。
「練習は予想よりもずっと厳しかったですね。毎回4時間のトレーニングでバンプとランニングの繰り返し。土曜と日曜は、通常の練習が終わってからも、追加で4時間くらいやっていました。火曜と木曜の朝はへとへとだし、週末は練習のみで自分の時間はまったくなかったです」
入門から半年後、シェインにデビューの話が舞い込んできた。2003年2月のパースでの大会に、4人まとめてのデビュー戦が決まったのである。
このカードは、新人たちの査定試合でもあった。勝者にはレギュラー参戦が約束されるという条件が付けられた。ここで勝てば、EPWのメンバーとしてレギュラーのポジションが与えられる。シェインはもちろん、勝つつもりで初めてのリングに上がった。
この大会、シェインは自分のデビュー戦であることを誰にも話さなかった。会場には何人もの友人がやってきていた。顔を見せないシェインに対し、友人たちは「バックステージの雑用係かなんかなんだろうな」と考えていた。ところが、入場ゲートから突然シェインが姿を現す。当然、友人たちはビックリだ。
本来なら勝ってもっと驚かせたかったシェイン。しかし勝利を手にすることはできなかった。レギュラーの座も消えた。それでも友人たちや家族は彼のプロレスラーデビューを祝福してくれた。家族も反対せず、好きなことをやらせてくれる。その3カ月後、デイビス・ストームからレギュラー参戦の確約をもらった。負けても腐らず練習に励んだ努力が認められたのだ。
とはいえ、プロレスだけで暮らしていけるほど、オーストラリアのプロレス界はビッグビジネスではない現実があった。ほとんどが副業を持ち、1カ月に1回リングに上がるというパターン。高校卒業後、シェインはさまざまなアルバイトを経験し、その合間に練習と試合を組み込んでいたのである。
「スポーツ用品店でシューズを販売したり工場で清掃器具をつくったりしていました。それはそれで楽しかったけど、やっぱりプロレスがやりたいですからね」
どうしたらもっと試合のできる環境に身を置けるのか。そう考えたシェインは、アメリカ行きを決意。まずは経験として現地で試合をしてみたいと実行に移す。
彼にとって初の海外は2007年に実現した。ロサンゼルスでNWA系の団体に出場。自分で移動して自分で会場を見つけるというサーキットを体験した。その後オーストラリアに戻り、アメリカと祖国を往来するケースが増えていく。
それ以前から、EPWではマイキー・ニコルスとの試合が多く組まれるようになっていた。TMDK結成前、両者はライバル関係にあったのだ。
といっても、ほとんどはマイキーが勝利。ときにはハードコアテイストの試合となり、シェインが脳震とうを起こして、病院に運ばれたこともある。
「マイキーの第一印象は決していいものではありませんでしたね。ボクたちは後輩だったから当然なんだろうけど、あまり話をする感じでもなかった。打ち解けるまでにはかなり時間がかかったんだ」
実際、対戦相手としてのマイキーとはまともに話したことがない。パーティーの席ではグラスが飛び交う騒ぎもあったという。
最初は30人ほどの観客からスタートした、マイキー・ニコルスvsシェイン・ヘイスト。それがやがてEPWの名物カードになっていくとは、本人たちもまったく予想していなかった。
その後、両者にとってふたたび予想できなかった出来事が持ち上がる。ファンの要望から、2人がタッグを組むことになったのだ。
2009年11月27日。試合は、マイキー&シェイン組でのEPWタッグ王座挑戦だった。当時の王者スレックス&カルロ・キャノン組からなんと一発でベルト奪取に成功。このとき、シェインは「このチームは一発で終わらない」と確信した。
そして、TMDKが正式にスタートする。両者による激しい闘いから一転してスポーツライクな姿勢が前面に出るようになった。しだいに同調者も現れ、タッグ王座を争ったスレックスも合流。タッグチームからユニットへと、TMDKが拡大路線に入っていく。
オレたちの活動範囲はオーストラリアだけにとどまらない。そう考えた2人は、メジャーシーンへの挑戦を目標に置いた。ROHをはじめアメリカの団体でも試合をしながら、2010年秋にはWLWとNOAHの合同キャンプに2人で参加するために合流した。とくにシェインはNOAHとKENTAの大ファンだっただけに、大興奮のトライアウト。日本行きではマイキーに先を越されたシェインだが、ここで合格すれば一気にチャンスが広がると考えた。
しかしながら、すぐに答えは出なかった。TMDKはキャンプ終了後、フロリダのFCWへと向かった。WWEから招待されたのである。
といっても、WWEと契約を結んだのではなく、あくまでも経験としてFCWを見てみないかという誘いだった。もしかしたら近い将来に向けてコネクションができるかもしれない。とりあえず、マイキーとシェインはFCWを見学。それから今後への戦略を練るつもりだった。
ちょうど忘れかけたころだったか、NOAHからTMDKに「日本に来てほしい」という連絡が入る。キャンプではそれらしき話がまったくなかっただけに、喜びよりも驚きが先に出た。「とりあえず留学生から」との条件こそあったものの、チャンスさえもらえれば、どんな制約も無関係だった。マイキーもシェインも、日本行きを即決。2011年2月、言葉の壁を乗り越えてのチャレンジが始まった。
まったくの無名ながら、日本流のレスリングや生活様式に溶け込もうとする姿勢が評判を呼んだ。そのかいあって、2011年12月には鈴木鼓太郎&青木篤志組が保持していたGHCジュニアタッグ王座に初挑戦。EPWのような一発奪取こそならなかったものの、試合内容で大きなポテンシャルを感じさせた。
タッグだけではなく、シングルにおいても徐々に頭角を現し、2012年11月にはグローバル・リーグ戦に出場、初戦で優勝候補の丸藤正道、さらには当時のGHCタッグ王者だった齋藤彰俊を破る金星を挙げた。このシリーズではマイキーも潮﨑豪に勝っており、TMDKの存在感がしだいに大きくなっていく。
そして彼らのまえに、倒さなくてはならない宿敵が他団体からやってくる。新日本のCHAOS、飯塚高史&矢野通組とのGHCタッグ王座をめぐる攻防がスタートしたのだ。
2013年4月、グローバル・タッグリーグ戦に初出場したTMDKは飯塚&矢野組に勝利、つづく5月の対戦ではタッグのベルトをかけ再戦するも、王座奪取には至らなかった。両軍の戦績は1勝1敗。とくに2度目の対戦ではTMDKがNOAH所属となった直後だけに期待が高かった。
入団についてシェインはこう話す。「NOAHでのハードワークとリスペクトの気持ちが入団のかたちになったんだと思います。望んだことではありますけど、外国人のボクたちにとっては夢物語だったんで、まさか本当に入団できるとは。その話がきたときには冷静な振りをして聞いていましたけど、心の中では大喜びですよ(笑)。マイキーとハイタッチをかわしましたね」
所属の証明をするのが、NOAHへのGHCタッグ王座奪回だった。5・12後楽園ではかなわなかっただけに、7・7有明コロシアムは背水の陣。TMDKのコンセプト(強気はくじけず)を示すにも絶好の機会である。
結果、マイキーもシェインも、これまでにないような大流血に見舞われた。それでもあきらめない気持ちがTMDKとNOAHに勝利をもたらした。オーストラリア人として初めてとなる歓喜のGHCタッグ王座奪取。試合後のバックステージで、シェインは「GHCのベルトに欠けていた“H(崇高さ)”をオレたちが取り戻した!」と声を上げた。
「日本行きを決めたことが人生最大のターニングポイントだった」とシェインは語る。そして今回のタッグ王座奪取は、「もっとも忘れられない最高の瞬間になった」という。やられてもやられても立ち向かうその姿に、往年のドリー・ファンクJr&テリー・ファンクのザ・ファンクスを想起させたとの声もある。
「ヒールから大流血させられたからそう見えたのかもしれないけど、そう言われるのはうれしいですね。ファンクスは伝説のタッグチーム。10年後、20年後の王者から引き合いに出されるチームにTMDKもなれればいいなと思います。記憶に残るタッグ王者になりたいです」
2013年はデビュー10周年。振り返ってみると劇的すぎる10年間だった。
※取材&文・新井宏
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