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2019-12-20

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・長谷川戡洋編 ひらめきと勇気でもぎとった会心の優勝――[その1]

これがオレのふるさとだ。

※写真上=関脇を21場所務め、実力は大関クラスだった長谷川
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

親孝行のため北海道から入門

 都会に暮らす一人ぼっちの田舎出身者が、つらいことやうれしいことがあったとき、真っ先に浮かぶのは母の顔であり、小さいころ、風を切って駆けずり回ったふるさとの山や川だ。

 長谷川がふるさとの北海道空知郡栗沢町上美流渡(現岩見沢市)のことを思い出すと、物置の奥にしまってある2枚の門札をそっと取り出して見るようになったのは、入門して10年経ち、ようやく周りの人や、社会の陰影が見えるようになった昭和45(1970)年のことだった。

 この年の3月、かつて父が勤めていた「北炭美流渡鉱」の閉山に伴って母校の上美流渡小学校と中学校がいっぺんに廃校になった。人口が激減し、通学して来る子どもたちがいなくなってしまったのだ。長谷川は、ひょんなことからその母校の校門に掛かっていた「上美流渡小学校」「上美流渡中学校」と筆太に書かれた厚手の板の門札を入手し、自分だけの宝物にしていたのである。

 その風雨にさらされた門札を見詰めていると、まだ町の人口が今の3倍もあり、活気に満ちあふれていたころの山の様子や、この門札のかかった校門を出て、力士になるために東京に出てきた日のことが、まるで昨日のことのように蘇ってくる。

「オレ、やっぱり高校へ行くのをやめて東京に行く。行って力士になるよ」

 長谷川が父にこう切り出したのはこの北国の町がその秋一番の“冷え”を記録した中学3年の10月だった。長谷川一家は、戦後、樺太(現ロシア共和国サハリン)から引き揚げ、この町に住み着いた。

 家族は両親と、兄弟7人の9人で、長谷川はその二男。高校に進学していた長兄がしょっちゅう授業料を滞納し、その度に両親がため息をついている姿を垣間見ているだけに、なかなかオレも高校に、とは言い出しにくい経済状況だったのである。

 幸いなことに、すでに中学2年のとき、身長が179センチ、体重も79キロと、その“怪童”ぶりは近郷でもつとに有名で、体力と運動神経には自信があった。このため、本命の佐渡ケ嶽部屋ばかりでなく、伊勢ケ濱部屋や春日野部屋からも、

「やってみるとおもしろいぞ」

 と熱心な誘いを受けている。

 オレが家を出れば、その分食いぶちが減るし、出世すれば両親に仕送りもできる。また小さな弟や妹たちもいるし、こうする以外に方法がないじゃないか。

 このときの、両親の不安と安堵感の入り混じった顔と、狭い部屋いっぱいに漂っていた温かいみそ汁のにおいを、引退して18年経ち、長谷川改め年寄秀ノ山となった今でも、フッと懐かしく思い出すことがある。

入門して遭遇したプロの苦い味

 初土俵は35年春場所。体と、手を触れればヤケドしそうなハングリー精神にあふれていただけに、出世の足取りは快調そのもの。初めて西序ノ口11枚目に四股名が載った次の夏場所も、いきなり初日から4連勝し、ストレートで勝ち越している。

 そして、この意気揚がる長谷川の前に、9日目の5番相撲で立ちはだかったのが、入門前から「双葉山の再来」と騒がれ、わざわざ元横綱鏡里の立田川親方(当時)が熊本まで迎えに行ったことでも話題を集めた時津風部屋の牧本(最高位前頭12枚目、41歳まで現役を務め、57年九州場所限りで廃業)だった。前の場所、一緒に初土俵を踏んだ同期生でもある。

 ――土俵に上がったら一対一じゃないか。高校卒の有名人も、北海道の片田舎の中学卒もあるか。ようし、双葉山の再来がどんなものか、試してやる。

 まだ怖いもの知らずの長谷川は、この3つ年上の注目力士を向こうに回して、闘志をめらめら。真っ向から勝負を挑んでいった。

 しかし、結果は、長谷川の意気込みとはまるで違ったものに。左四つに組んでは見たものの、やはり2人の力の差は歴然だった。長谷川は右の外掛けでやすやすとねじ伏せられてしまったのだ。これが、その後16年余にわたる長谷川の現役生活の最初の黒星である。

「強いなあ、というのがそのときの第一印象でしたね。その次に思ったのは、でも、この次に会ったときは負けないぞ、でした。それだけ悔しかったんですよ。でも、とうとうこの牧本とはそれっきり顔が合いませんでした。最初、牧本がスッと上に行き、幕下の途中でこっちが追い抜くと、また水が開いてしまいましたから」

 と秀ノ山親方はこの、入門して初めて味わったプロの苦い水をしみじみと語る。

 このとき、上美流渡にいたころからお山の大将だった長谷川は、この世に自分より目立って、しかも強い者がいることと、負ける悔しさを骨の髄まで思い知ったのである。これが翌日からの稽古の糧に。

 この猛稽古が実って、長谷川が北の富士(横綱)や、清國(大関)らに競り勝ち、待望の十両に昇進したのは、牧本に負けて2年半後の38年初場所だった。

 当時、長谷川は、千代の山に次ぐ史上2番目の十両年少記録である18歳5カ月、牧本がこの十両にたどり着いたのは、それから2年後の40年1月のことである。負けても、勝つ以上に大きな収獲を得られることを、長谷川は番付に登場した最初の場所の5番目の相撲で体験したのだった。(続)

PROFILE
長谷川戡洋 ◎本名・長谷川勝敏。昭和19年7月20日、北海道岩見沢市出身。佐渡ケ嶽部屋。184cm127kg。昭和35年春場所、本名の長谷川で初土俵。38年初場所新十両。40年初場所新入幕。最高位関脇。幕内通算69場所、523勝502敗。優勝1回、殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞2回。51年夏場所に引退し、年寄秀ノ山を襲名。佐渡ケ嶽部屋で後進の指導にあたる。平成21年7月、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成6年9月号掲載

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