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2019-10-22

私の“奇跡の一枚” 連載38 行司人生50年 木村玉光感謝の『千秋楽』

百人百様。人間に運、不運がつきものでも、それぞれに与えられた人生の尊さは変わらない。私はそここそ平凡な行司だったが、49年11カ月間なんとかそれを通したからこそ、通させてもらったからこそ、穏やかな今があると思っている。

※写真上=平成27年初場所欠場のため、玉光さんの行司人生最後の晴れ姿となった、26年12月岡山市真庭市巡業での裁き。両者の呼吸をはかりながら立ち合いを合わせる。手をきちんとついて立たせるための構え。スキのない目くばせに注目!
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

華やかな一門の行司として受けた僥倖

 子どものころから好きだった相撲の世界に飛び込んだところから、私は自分の力だけでは決して味わえぬ人生を体験できたのだ。行司部屋に入門したときから(昭和40<1965>年5月)、尊敬する兄弟子から言われ続けた「何があっても辞めるんじゃないぞ。辞めたら何にもなくなる」という言葉が改めて思い浮かぶ。そしていま、若手に同じ言葉を掛けている自分がいる。

 行司が相撲部屋から独立していた時代に入門した私は、若手の監督を務めていた先代玉光さんの縁で花籠部屋につながることになった。

 それまで部屋を置くのが常識だった両国から離れた元幕内大ノ海の花籠親方が、弟子である二子山親方(元横綱初代若乃花)ともに徐々に阿佐谷一門としての力を伸ばし始めた時代。貴ノ花さんとは、職種は違っても同期で、誕生月も同じ2月ということで仲良くしていただいた。

 その後の阿佐谷一門の華々しさは皆さまご存じのとおり。“土俵の鬼”の若乃花の弟にして悲壮な取り口で日本中の人々を惹き付けた大関貴ノ花をはじめ、横綱輪島、大関魁傑、個性派竜虎、大勢の関取衆……人気力士がズラリとそろっていた。

 いろいろなパーティーを新宿の京王プラザホテルで行っていたことから、昭和52年当時、まだ幕下だった私に同じ立派なホテルで結婚式をやれ、といってくださったのも、この師匠花籠親方だった。

 当日は私の母など、新郎新婦はそっちのけ、夢中になって一門の関取衆との写真を撮りまくり、私たちはほとんどそのカメラに写っていなかったことを輝かしく思い出す。

至誠一貫…玉光行司道

 相撲界は一年を通じてサイクルこそ決まっているが、地方場所、地方巡業等がその間に挟まり変化が大きく、飽きるということがなかった。

 行司の仕事は、土俵上ばかりでなく多岐にわたるが、私なりに気合が入ったのが場内放送だった。当時からの心情は「至誠」。私はひたすら聞き取りやすく、分かりやすくを心掛けた。裁きも同じ。我ながらよく裁いたなと思った勝負ももちろんある。

 しかし健康面に問題が起こり、あわせて足の骨折等も重なったため、それもなかなか叶わなくなった。脳梗塞で倒れたときには絶望しかかったが、1年という長い、厳しいリハビリの時間をいただき、皆様の励ましに加え、自分なりの努力もあって、再び装束を着て土俵の上に立てたときのうれしさと言ったらなかった。

 しかし、下半身の衰えは明らかで、このままではいけない。自分が失態をおかすと仲間ばかりでなく、行司界、ひいては相撲界の評判にかかわってくる。みんなに迷惑をかけるわけにはいかない――。私は立行司を辞退するのが道と考えた。私の出処進退の経緯については多くの皆さんが賛否両論を寄せてくださったが、すべてはこれが理由である。

 皆様、長い間本当にお世話になりました。今後は国技館で私の顔を見かけたら、大相撲ファン同士としてのお付き合いをお願いいたします。

語り部=16代木村玉光(三役行司。本名上田延秀。京都府宇治市出身。芝田山部屋。平成27年2月26日停年)

月刊『相撲』平成27年3月号掲載

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