野口智博氏による競泳・歴代トップスイマー比較考察。今回は1984年ロサンゼルス五輪男子100m自由形、400mフリーリレー、400mメドレーリレー優勝のラウディ・ゲインズと、2008年北京五輪男子50m自由形でブラジル競泳史上初の金メダリストとなったセザール・シエロフィーリョです。
1970年代後半に世界デビューし、1981年に男子100m自由形でジョンティ・スキナー(南アフリカ)の世界記録を破る49秒36をマーク。ロサンゼルス五輪では3個の金メダルを獲得し、今でもマスターズ短水路世界記録保持者として泳ぎ続けているラウディ・ゲインズ(米国)。1980年代に代々木で行なわれた世界マスターズを始め、何度か来日し、クリニックが開催されたこともあり、今でもファンが多いレジェンドスイマーのひとりです。米国NBCの競泳解説者として、日本で言えば松岡修造ばりのエキサイティングな解説で、世界中の人気者でもあります。
対するは、現世界記録保持者。北京五輪男子50m自由形で優勝し、ブラジル人として初の金メダリストとなった、セザール・シエロフィーリョ。2009年の高速水着時代に100m自由形でマークした46秒91は、今もって誰も突破できない壁となっている、伝説のスイマーでもあります。
実はこのふたり、選手としての成長の軌跡を見ると、子供のころから飛び抜けて速かったわけではありません。成長過程でさまざまな経験を経て、世界のトップに立ったのです。春の全国JO杯がなくなって失意の底にいたり、新たな目標を探している日本のジュニアスイマーたちにも、彼らの歩みやパフォーマンスを知ることは、きっと参考になるというか、一筋の光明を見出せるのではないかと思いまして、ピックアップさせていただきました。なぜかは、読み続けていただけたらわかります。
ゲインズの特徴は、パワー全盛の米国の短距離スイマーには珍しく、50~400mまでこなせる、泳力の土台の高さ。動きに無駄がなく癖がないのです。長距離で旧西ドイツのステファン・ファイファーが、ゲインズと大変よく似た泳ぎをしますが、1500mのオリンピックメダリスト(ロサンゼルス五輪銅、ソウル五輪銀)と同じくらい、推進効率の良い泳ぎをするとも言えるでしょう。動画のレースは地元で行なわれたロサンゼルス五輪の決勝ということで、意図的に前半を抑えて回り、後半の50mを微妙にテンポアップし、後続を引き離しました。トータルタイムに対する前半と後半の比率を見ても、シエロフィーリョに比べるとかなり後半に力を注いだ感が見受けられます。オリンピックでのレースはベストタイムではありませんでしたが、高い泳力の体力的土台や、泳ぎのスムースさを生かして、後半勝負に持ち込み、このときのファイナリストたちを見事に手玉に取ったレースとも言えるでしょう。
一方、シエロフィーリョのベストレースとも言えるのは、2009年ローマ世界選手権。大会期間中に43個の世界新記録が樹立され、水着ルール問題に一石を投じた大会ともなりましたが、ルール改正前に樹立された個人種目の世界記録で、今なお生き残っているのが、男子では50、100、200、400、800m自由形と200m背泳ぎ、400m個人メドレーとリレー3種目です(ちなみに女子では200m自由形と200mバタフライ)。
そのうちの男子50、100m自由形の2つは、シエロフィーリョによるものです。
シエロフィーリョの泳ぎも「ピッチ重視」の近代スプリントに対し、特に左腕のキャッチ動作などは、動画でも確認できるほど、エントリーからキャッチのエルボーアップがストローク前半でしっかりと行なわれていて、プル局面の軌跡が長いプルをしているのが見てとれます。
シエロフィーリョの高校時代の師匠はグスターボ・ボルゲス氏で、米国のミシガン大出身のブラジリアンで自由形の五輪メダリスト。やはりシエロフィーリョと同じ短距離の名スイマーでした。ミシガン大と言えば、言わずと知れたジョン・アーバンチェックコーチが率いた強豪チーム。今の日本水泳界でも取り入れているチームがある「T-30(30分泳)」計測をもとにした、トレーニングカテゴリーによる指導は、多くの世界記録保持者、オリンピックチャンピオンを育てました。ですので、その弟子のシエロフィーリョも、ゲインズよりシステマチックに低・中強度のトレーニングを積むことで、この効率の良い泳ぎを若い時代に獲得してきたのだと推察されます。
セザール・シエロフィーリョ 2009年ローマ世界選手権
ふたりのレース中のストローク数を比較すると、圧倒的にシエロフィーリョの方が少なくなります。やはり「高速水着」の恩恵で、スタート後、ターン後の潜水距離が伸びていることや、1ストローク中に身体が受ける水抵抗の違いなどが、ふたりの速度違いになっているな…とは感じます。確かに、泳ぎの局面だけで言えば、シエロフィーリョの泳ぎの大きさやパワフルさは、明らかにゲインズのそれとは一段階違う感じがします。
しかし、その時代に王座に就いている選手は、必ず何かがあるものです。彼らのターン局面を比べてみましょう。
ゲインズは、ターンイン(5mライン頭通過から壁に足がつくまで)が2秒86。シエロフィーリョは2秒76秒。ターンアウト(壁に足が着いたところから、5m頭通過まで)はゲインズ1秒44に対し、シエロフィーリョ1秒33となっています。
ふたりの泳ぎの差を考えると、高速水着の恩恵があるシエロフィーリョに対し、ゲインズのターン局面の合計はたった0秒21しか違いがありません。ゲインズはスイムキャップも被っていませんし、水着もブーメランです。だとすると、ターンのスキル的には「このふたりに大差はない」と考えることができます。
シエロフィーリョの、このレースのターンで素晴らしいな…と思えたのは、壁に向かって思いきり泳いでいきながらも、右腕の入水の勢いを使い、回転前のドルフィンキックを最小限にして、素早く回転動作を行なっているところです。隣のアラン・ベルナール(フランス)とターン時には0秒05しか差がなかったのに、ターンアウト後15mでは、もっと差が広がっていることからも、彼のターンの優秀さがわかります。
でも、そのおおよそ25年前。ゲインズはシエロフィーリョに並ぶほどのターンスキルを持っていたとすると、それってかなり凄いことだと思いませんか?
ゲインズのスタートとターンは、当時「ゲインズ・スタート」「ゲインズ・スピン・ターン」と呼ばれるほど、ほかの選手と比べスキルが熟達していました。
スタートは、いち早く「クラウチング・スタート」を取り入れました。当時米国の女子のスプリンターが使っていたのをパクった(笑)のだと、米国情勢に詳しい関係者から聞きましたが、フライングをしないように、片足を引いて構え、グラブスタート以上に腕の力を貢献させて、「安全に、かつ素早く」飛び出すことを目的としたと、だいぶ以前に、ご本人から直接聞きました。
ターンは、両足(腿)の間を肩幅くらい開けて、両脚で水をすくわないようにしています。回転の際に腿で水をすくうと、水の重さで回転の後半にスピードが鈍り、壁を蹴る前に勢いが止まってしまうからです。また、回り始めは膝を伸ばし、回りながら膝を曲げることで、回転に加速がつきます。ちょうど、フィギュアスケーターがスピンの際に、両腕を広げてから回り始め、身体に巻き付けるように腕を縮める技術があります。回り始めたあと腕を小さく縮めることで回転半径が小さくなり、回転に加速がつくわけで、ゲインズのスピンターンもこの技術を応用したものであると言えます。
シエロフィーリョと共通する点ですが、ゲインズもターン前にドルフィンキックを強く使いません。ロサンゼルス五輪の決勝レースのゲインズのターンは、少し遠い間合いから回っていますが、泳いできた勢いを止めずに回転動作につなげるために、シエロフィーリョ同様、ドルフィンキックを凄く小さくしていますね。ぱっと見は「打ってないんじゃないか?」と思えるほどです。
これ、実際にやってみるとわかりますが、回転前両膝が真っすぐ伸びた状態でそのまま足首だけを曲げてみると、前方へ進んでいた身体に少し足のブレーキがかかります。すると、脛から流れてきた水が、足首から足指方向へ流れます。また、ターン前にスピードを落とさずに、急激に足首を曲げるので、ここでかなり強い水圧を足に当てることができ、その水圧の強さで足が水面へ上がり始めます。これができると、ドルフィンなしでも簡単に足が上がり、速い回転で回れるようになります。
実は、そんなスキルを持つゲインズもシエロフィーリョも、競泳選手としての本格的なキャリアが始まったのは、16歳ごろなんです。
ゲインズは、子供のころ泳いでいたものの、中学時代はさまざまなスポーツを行ない、高校に入ってから本格的に競泳に取り組み、フロリダ大の奨学金を得て同大学に進学。そこから一気に才能が開花し、世界選手権、オリンピックの金メダリストになったのです。
シエロフィーリョは、小さいころ、母親に連れられて水泳を始めましたが、本格的に選手としての活躍を目指したのは、9歳のときにアトランタ五輪を見てから。そこでは、グスターボ・ボルゲスがまさに選手としてのピークを迎えていました。その後彼は、わりと早い時期に地域のレースで勝つことを経験しますが、15歳で米国での練習を経験し、16歳のときにボルゲスコーチの元に移籍。そのころからようやく腰を据えて強化を始めたと言って良いでしょう。言わば彼らは、10代前半では、選手としての栄光をあまりよく知らなかったけれど、さまざまなスポーツをしたり違う国の練習を体験したりして、それらを肥やしにして、オリンピックチャンピオンになったのです。
この春、運悪くチャンスが回ってこなかったジュニアスイマーの皆さんも、低年齢期に好成績がなくても、このふたりのように世界のトップになる夢をあきらめず、水泳以外のことにも取り組みながら、納得いくまで頑張って泳いでもらいたいと思います。
さて、そのために何をすべきか? ですよね。
30年前、米国での日本代表合宿の際に激励しに来てくださったゲインズさんにお会いしたとき、「どうやってスタートやターンがうまくなったんですか?」と質問したところ、こんなお話をしてくださいました。
「私は1日の練習の最後に、必ず5回ずつスタートとターンを練習しました。1日で言えばたった5回。数分のことですが、2日で10回。1週間で30回も、1年経てば、やらない人の間に何十時間分もの差がつきます。なので、私は試合に出ても、スタートとターンだけは誰にも負けない自信がありました」(要旨)
ゲインズさんが30年前に、今の選手にも引けを取らないスキルを獲得していたのは、決してシステマチックな「作られた育成過程」の中でできたものではなく、自らの意志で自らに課した「1日5回、クールダウン前に集中してうまくなるための練習をする」という、至ってシンプルなものでした。泳げるようになったら、「自らに課す何か」を探り出す…そんな時間に、今を充ててみてはいかがでしょうか。
文◎野口智博(日本大文理学部教授)
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