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2021-07-02

【連載 名力士ライバル列伝】「北玉時代」至高のライバル対決その1

はかなくも濃密な時代を築いた玉の海(左)と北の富士

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柏戸、大鵬に代わり時代を作ったのは北の富士、玉の海の両雄だった。
短くもまばゆいばかりの光を放った「北玉時代」。
そして早逝のライバルの強さは、どこにあったのか。
現在、NHK相撲中継の解説者を務める北の富士勝昭氏の言葉とともに、振り返ってみたい。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

性格は玉の海が“現代っ子”

対戦成績は北の富士22勝、玉の海21勝。「栃若」「柏鵬」「輪湖」とともに、相撲史に残る屈指のライバル対決である「北玉」の幕内初対決は、昭和39(1964)年夏場所千秋楽。北の富士が入幕3場所目、玉の海が2場所目のことだった。十両時代には2度対戦し、北の富士が連勝しているが、この日は北の富士の突っ張りをこらえた玉の海が、左を差して寄り返し、最後は腰を入れて長身の北の冨士を吊り出してみせた(四股名はそれぞれ42年名古屋場所まで北の冨士、45年初場所まで玉乃島)。

玉の海は北の富士にとって、幕下のころから気になる存在だった。「二所ノ関一門に足腰が強く、相撲センス抜群の力士がいる」。年は北の富士が2歳上だが、そんなウワサを聞いて、意識しないわけはなかった。

「ただ、玉の海は入門前に柔道の猛者として鳴らしていたでしょう。私なんか相撲も柔道もしたことがなかった。それじゃあ、突っ張るのか、頭で当たるのか、押すのか……どういう相撲を取るのかとなったときに、頭で当たるのは怖くてイヤだったし、押すにしても力はないし、じゃあ千代の山さんの弟子だから、見よう見まねで突っ張ってみようと、そこから、ああいう『速攻相撲』になっていったんです。非力を補うために、速い相撲を取るというのは、下のころから常に意識しましたね」

激しい突っ張りから左四つ、またはモロ差しとなってのスピードある寄り、投げ、外掛けを持ち味とする北の富士。下半身のバネを生かした右四つからの吊り寄り、そして柔道経験を生かした内掛けも繰り出す玉の海。初めは“ライバル”と呼ぶほどではなかった互いの闘志は、番付を上げるにしたがい、次第に熱を帯びていく。

両者、大関昇進を期待された昭和41年名古屋場所は、互いに10勝目を掛けて千秋楽で対戦。左を差して息もつかさず攻め込む北の富士と、下手から強引に吊りに出る玉の海。最後は投げの打ち合いとなったが、北の富士の右上手投げがわずかに勝り、先に大関の座をつかみ取った。だが翌場所は玉の海がやり返す。10勝同士で迎えた千秋楽、突っ張り合いから左四つになったものの、右上手が遠い北の富士に対し、玉の海は機を見て吊りに出る。北の富士は長い足を絡ませて対抗したが、玉の海は掛けられた右足を思い切り跳ね上げて相手を仰天させ、1場所遅れで大関にたどり着いた。両者の激突が“宿命の対決”と呼ばれるようになったのも、この時期からだ。

「性格的にもいろいろ比較された。でも私は明るくて、彼は重厚というのは間違い、むしろ、彼のほうが明るくて、私は明るそうに見えて暗い(笑)。“現代っ子”だなんてとんでもない。彼のほうがギターも弾けるし、ボウリングも好き。それに、それまで力士がやらなかったジョギングを本格的に始めたのも、彼が最初ですからね」(続く)

『名力士風雲録』第18号玉の海 北の富士 琴櫻掲載

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