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2021-10-29

50年前のアントニオ猪木=現在のビンス・マクマホン!? 藤波辰爾が語る新日本プロレス旗揚げ<4>【週刊プロレス】

バックステージでモニターを見つめるアントニオ猪木

 坂口征二の加入とともにスタートしたテレビ中継。放映権料が定期的に入ることで新日本プロレスも軌道に乗った。経営面で大きな後ろ盾ができたわけだが、アントニオ猪木は単に露出といった一面だけでなく、テレビを最大限に活用した。控室ではモニターをチェックして、中継スタッフにも指示していた。それも細かい部分にまで神経を使って。藤波辰爾は同じ控室で、それを目の当たりにしていた。
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 団体経営にはテレビ中継が不可欠といわれた時代。実際、日本プロレスも国際プロレスも放映打ち切り後、半年もしないうちに崩壊している。

「旗揚げした当時はレギュラーのテレビ中継がなくて、テレビ東京(当時、東京12チャンネル)が猪木さんとカール・ゴッチの試合を放映したんですけど。テレビの力、メディアの力っていうのは大きいですよ。自分たちのやってることをお客さんに直に伝えるというのは大事なことですけど、それをもっと広く伝えるにはメディアの力を借りないと。エンターテインメントではあるけど、リング上にある感情、人間臭さ、泥臭さというものは日本人の心に突き刺さるもの。それを伝える意味でもテレビ中継開始は大きかった。

 そういう時代でもあったし、そういう心構えでリングに上がってましたね。僕はずっと猪木さんを見てきてますから、猪木さんが手本になる。レスラーってみんな、どこかで猪木さんを意識してるんでしょうね。猪木さんを意識してる上で、自分が何をやろうとしてリングに向かうのか、何をもって闘うのか。そういう部分は人一倍意識してましたね。

 それを伝えるメディアそれがテレビ朝日で。あの頃は毎週金曜に中継があって、猪木さんが必ずスタッフを控室に集めてましたから。最初はそういうことはなかったんだけど、控室にあるモニターを見て猪木さんがしょっちゅう怒ってて。『なんでここで選手が画面からいなくなるんだ?』とか。会場にはカメラが3台も4台も入ってるわけでしょ。だったら、どれかが選手を追ってるだろう、映せるはずだって。

 選手が怒りを爆発させた瞬間、お客さんはどんな表情してるのかとか、そのへんを猪木さんは控室でチェックしてて、気に入らなかったら怒鳴るわけですよ。それであるときから中継があるときはスタッフを控室に集めて。特にカメラとディレクター、中継車にいるどの画面を選ぶかというスイッチャー、彼らに指示してましたよ。まるでプロデューサーになったように。それぐらい真剣でした」

 まさに今、その仕事をしてるのがWWEのビンス・マクマホン代表。猪木は50年近く前からそれをしていたことになる。

「お茶の間いるファンに、会場の雰囲気を届けるっていうね。レスラーが怒る、お客さんもいっしょになって怒る、興奮する。それをお茶の間にも同時に伝えないといけない、ってよく言ってましたね。最盛期は全国どこへ行っても満員になるんだけど、時折、空席が見えることがあって。今は珍しくなくなったけどね(苦笑)。その空席を見せちゃいけないってことでね、テレビカメラに映らないところに座ってるお客さんを空席に移動してもらって。

 そういう絵作りにはものすごく神経使ってましたね。それは絶対はずさなかった。リングの上の照明にしても、テレビ中継以外では最初はなかった。でも、お客さんをリングに集中させないといけないってことで、地方のテレビ中継がない会場でも新日本プロレスで照明を持ち運んで吊るようになった。そういう細かいところまで神経を使ってた」

 かつては満員だったら会場の照明を落とさずに客席を映していた。また営業マンもテレビ中継のある会場ではカメラに映るところからチケットを売るように指示されていた。

「空席が目立つと、『今日の(営業)担当は誰だ!』って怒ってましたね。リングに上がる選手もそう、周りの営業マンもそう、本当に闘ってた。全日本プロレスに負けるな! 全日本プロレスもそうだったんでしょうけど、そういういい争い、競争をしてましたよ。それも含めて猪木さんがいう『闘魂』なんだろうね。そういうものを持ってたから、視聴率も20%を超えてたんでしょう。今もそうなんだろうけど、局に行くと毎週の視聴率が張り出されてて。『ワールドプロレスリング』は常にトップクラスで。あの頃は『西部警察』と並んでテレビ朝日の2大看板だったんじゃないかな。日本テレビの裏番組『太陽にほえろ!』と争ってましたからね。20%切ると、『あぁ……』って溜息ついてましたから。それぐらい。今じゃ考えられないね」

(つづく)

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