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2022-02-16

昨年は後楽園ホールで67大会を開催! 初進出は全日本に遅れること8カ月の1973年7月6日…新日本プロレス歴史街道50年(14)【週刊プロレス】

1973年3月に新日本合流を発表した坂口征二がアントニオ猪木と握手

 4月16日、東京・後楽園ホールが開館60周年を迎える。もともとボクシングの常設会場として建設された同ホールだが、立地がいいことから日本プロレスがリキ・スポーツパレス売却前年の1966年11月25日に初使用して以降、都内の常打ち会場となった。

 日本テレビ系列ということもあって他局で中継されいていた国際プロレスは日プロ崩壊後の1973年9月26日に初進出。1969年7月2日放映分から日テレとの2局中継でスタートしたNET(現テレビ朝日)『ワールドプロレスリング』は日プロ時代にも同ホールから中継されていたが、新日本プロレスになってからは1973年7月6日が初進出。生中継された。

 各団体が使用し、年間では最も多くプロレス興行が開催される東京・後楽園ホールでもある。コロナ禍という特別な状況下であるものの、新日本プロレスは昨年、同ホールで67大会をおこなっている。国内の年間試合数が166だから、実に4割を占める。まさに“プロレスの殿堂”だ。

 日プロが初使用した際はシングルマッチ8試合が組まれ、第1試合は星野勘太郎vs高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)。メインイベントはジャイアント馬場vsルイス・ヘルナンデスで、第4試合には今も現役の小鹿雷三(グレート小鹿)が出場している(対戦相手はミツ平井)。アントニオ猪木は東京プロレス旗揚げ直後、坂口征二はまだプロレス転向を果たしていない。

 日本テレビが『三菱ダイヤモンド・アワー・プロレスリング中継』を放映している間、プロレスでは日プロの独占状態。他団体は使用しておらず、全日本プロレス旗揚げ15戦目となった1972年11月25日が他団体初使用。メインは馬場vsダッチ・サベージで、第1試合は藤井誠之vs鶴見五郎。

 全日プロに遅れること8カ月、1973年7月6日、『サマービッグファイト・シリーズ』開幕戦の『ワールドプロレスリング』生中継で新日本プロレスが殿堂に初進出した。

 第1試合は栗栖正伸vs藤原喜明。旗揚げ戦の第1試合を務めた藤波辰巳(当時)は第4試合でデビュー戦と同じ魁勝司(北沢幹之)と対戦。新日プロ生え抜き第1号のリトル浜田(グラン浜田)は第3試合で小沢正志(のちのキラー・カーン)とシングルマッチをおこなっている。

 そして最初に中継に登場したのは第6試合の山本小鉄vsターザン・ジェイコブスで、セミファイナルが猪木、木戸修組vsシーン・リーガン、デニス・ホール組。メインでは坂口征二がジョン・L・サリバンとシングルマッチをおこない、反則勝ちを収めている。タッグマッチがセミファイナルの1試合だけで、まだ選手層が薄い時代だった。

 同シリーズでは2週間後(同20日)にも使用。10月26日の『闘魂シリーズ第2弾』開幕戦と、この年は3度使用。プロレスで使用する際の収容は2000人弱。後楽園ホールの生中継でシリーズが開幕、全国各地を転戦してビッグマッチで締めくくるという基本スケジュールは現在もそう変わらない。また手頃な大きさであることから、実験的な大会も数多く行われてきた。
(つづく)

橋爪哲也

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