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2022-02-22

木村健吾がレガースに凶器を忍ばせた稲妻レッグラリアットで藤波辰巳に勝利するも…新日本プロレス歴史街道50年(17)【週刊プロレス】

藤波辰巳に稲妻レッグラリアットを決める木村健吾

 本隊とUターンしてきたUWF軍団との全面対決に明け暮れた1986年の新日本プロレス。年末に大阪城ホールという大舞台で唐突に組まれた感が否めなかった藤波辰巳(当時)vs木村健吾(同)。突然めぐってきたチャンスに気負いしたのか、内容的に納得いかない敗戦を喫した健吾は再戦を要求。年頭の後楽園ホールで組まれた一騎打ちからライバル闘争は風雲急を告げた。

 1987年の開幕戦がおこなわれた1・2後楽園のメインでは、木村健吾の要求を受け入れる形で藤波辰巳とのシングルマッチが組まれた。これが最後のチャンスとばかりに積極的に攻め込む健吾。稲妻レッグラリアットでついにフォール勝ち。しかし、レガースに鉄パイプを忍ばせての一撃。カウント3が入った後にその凶器がリング上に残されていた。大混乱の中、一度下った裁定が無効試合に変更されたところで放送は終了。

 翌3日の後楽園ホール大会でも、カードが変更されて両者が一騎打ち。今度は前夜の健吾の闘い方に怒り心頭の藤波が珍しく反則暴走。当時、両者はコンビを組んでIWGPタッグ王座を保持していた。前年暮れにシングル対決をマッチメークした際には、まさかこんな展開になるとは予想してなかったはず。

 翌4日の川越大会から健吾は欠場。このままではタッグ王者チームが空中分解してしまう。元の鞘に納めるべく早急に決着をつけさせようと思っても、遺恨は深まるばかりでファンに見せられない展開になることも懸念された。そこで急きょ、ワンマッチのみの特別興行として決着戦を組むことに。場所も同じ後楽園ホールを押さえたのは事件が勃発した12日後だった。

 当時、『ワールドプロレスリング』は月曜翌8時からオンエアで、開幕戦は3日後の1月5日に録画中継された。特別興行を告知できたのは翌12日の中継。前売り券を発売する期間どころか、急きょ、シリーズに組み込まれた一戦のチケットを印刷する時間すらない。当日券のみの発売で価格も2000円。新日本プロレスにとっても、大きな賭けだった。

 しかしフタを開けると、早い時間からファンが詰めかけ後楽園ホールに続く階段に長蛇の列。観衆発表は2200人。さすがに伝説の元日興行のように詰め込むわけにもいかず、入りきれずに帰ったファンも大勢いた。

 通常なら中央の支柱に入れるスプリングを抜き、ボディースラム一発でも体がしびれるほどのダメージを受ける硬いリングに。また、上田馬之助がレフェリーを買って出た。健吾が海外遠征中にコンビを組んで、アメリカスタッグ王座を獲得しているかつてのパートナー。日本プロレス時代から若手の中では実力ナンバーワンといわれており、危険な闘いになった際に力づくでも試合を裁けると判断されての起用だった。新日本は旗揚げ以来、大一番で特別レフェリーを起用してきた。

 試合前、上田レフェリーは両者を握手させた。それが感情の赴くまま闘う遺恨マッチの匂いを消したものの、普段とは異なり投げ技が決まるたびに響き渡る乾いた音が、決闘ムードを漂わせていた。

 最後は藤波がバックドロップからの逆片エビでギブアップ勝ち。またしても健吾は藤波の壁をぶち破ることはできなかった。敗戦後、健吾はロスのジェットセンターへ出向いて打撃の修練を積んだ。平成維震軍に身を置いてからもシングルマッチで闘っている健吾だが勝利することはできなかった。

 2003年4月18日、後楽園ホールで西村修相手に引退試合を行った木村健悟。31年に及ぶプロレス人生で、史上初のワンマッチ興行に至る2週間が最も輝いていた。
(つづく)

橋爪哲也

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