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2022-03-22

マスクド・スーパースターの告白「ニュージャパンはファーストクラスの団体」新日本プロレス歴史街道50年(30)【週刊プロレス】

マスクド・スーパースター

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「選手層が厚い」とはプロレスに限らず、さまざまなスポーツで聞かれる。それは中堅、控え層を指す。レギュラー、トップ選手が欠けても実力的に差がなく、その穴を感じさせない活躍ができる選手がバックにいるということ。また、主力選手が持てる力を存分に発揮できるような役割を果たす選手。そのような存在だったのがマスクド・スーパースター。

 時にはシリーズのエース外国人として、またある時はディック・マードックやアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして一歩引いてワキ役に徹した。2002年、新日本プロレスが30年を迎えた際、ジョージア州アトランタ郊外の自宅を訪問。昭和の新日本プロレスを語ってもらった。その際のインタビューをここに再録。
※記録、表記は当時のまま

――新日本プロレスが30周年を迎えますが、マスクド・スーパースター選手は20年近くレギュラーとして参戦してきました。

スーパースター ニュージャパンはベリーグッドカンパニー。イノキをリスペクトしてるし、すべての面でナンバーワン。ファーストクラスの団体だね。スタン・ハンセンのように途中でオールジャパンに移ったレスラーもいれば、アブドーラ・ザ・ブッチャーのようにオールジャパンから移ってきた選手もいる。でも私は、ニュージャパン一筋でよかったと思っている。

――あなたはいろんなキャラクターで闘ってきましたが、やはり日本のファンにはマスクド・スーパースターが一番印象に残ってます。

スーパースター 私もこのキャラクターが好きだから、そう言ってくれるのはうれしいね。ミッドアトランティック、日本のほかにWWFやジョージア、ミネアポリス、カルガリーでもスーパースターとして闘ったけど、日本がナンバーワン。初めて日本に行ったときはファンが静かに試合を見ているので戸惑いもあった。でも何度も行くうちに、日本のファンはレスリングを見る目がしっかりしていることがわかった。

 だから日本では、多くのいい選手が育ったんだろうね。日本のレスリングスタイルは、アメリカンスタイルとは全然違う。動きは速いし、休んでちゃいけない。でも、それが私に合っていた。アメリカでジャパニーズスタイルの試合をしたときには、相手はすぐに息が上がってついてこれなかったもんだよ(笑)。

 ニュージャパンのレスラーは常にグッドコンディションをキープしていた。それには驚かされたね。アリーナに着くと、いつもみんなでトレーニングしていた。あれもジャパニーズスタイルなんだろうけど、いいことだと思ったよ。ニュージャパンは扱いもファーストクラス。アカサカ(赤坂允之氏=外国人移動バスのドライバー)は引退したんだって? 彼はとても優秀なドライバーだった。安心して寝ていられたよ(笑)。また彼と会いたいし、彼が運転するバスにももう1度、乗ってみたい。

――当時、外国人レスラーはヒールというのが定番でした。しかし、あなたの試合スタイルは必ずしもそうでなかった。アスリート的な印象も受けました。

スーパースター そう言ってくれるのはありがたいね。日本でタイガー・ジェット・シンやアブドーラ・ザ・ブッチャーが人気があるのは知っていた。でも、私は彼らのようなファイトはしなかった。それはレスリングが好きであるし、レスリングをすることがいい試合につながると思っていたからだ。

 ニュージャパンはイノキをはじめ、サカグチ、フジナミ、マサ・サイトーと、レスリングができる選手がそろっていたし、ファンもそれを望んでいると思っていた。1度、サカグチをファイナル(決勝戦)を闘ったことがある(77年3・31蔵前、『第4回ワールドリーグ戦』)。

 とても長い闘いになって、ファンは最後まで静かに私たちの試合を見ていた。だけど試合が終ると、サカグチだけでなく私にも大きな拍手をしてくれた。その時、日本のファンはこういう闘いを望んでいるんだと感じたよ。日本で長く闘えたのは、そういうファンにサポートされたからだと思っている。感謝してるよ。
(つづく)

橋爪哲也

<プロフィル>
本名 ビル・イーディ。プロレス入りする前は高校の歴史、地理の教師をしていた。73年、ボロ・モンゴルとしてジートとのザ・モンゴリアンズでプロレス人生をスタート。74年4月、新日本に初来日。ミッドアトランティック地区に主戦場を移す際、マスクド・スーパースターに変身。81年8・6蔵前で猪木に敗れて素顔に。同年11月、素顔のビリー・クラッシャーとして来日するが、 すぐにマスクマンに戻る。85年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとのコンビでマシン軍団(スーパー・マシン)に変身。このキャラクターでWWF(当時)マットにも参戦した。87年春、WWFマット定着を機にペイントレスラーのアックス・デモリッションに変身。90年4・13『日米レスリング・サミット』に参戦するまで新日本一筋。2011年7月、日本で引退。

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