東京五輪男子マラソンで6位入賞を果たし第一線から退いた大迫傑。2015年に単身、アメリカに渡り、プロランナーとして高みを目指してきた希代のランナーはどのような存在だったのか。早稲田大時代の恩師・渡辺康幸氏(現・住友電工監督)にラストレース、そしてこれまでの歩みについて聞いた。
※この記事は「陸上競技マガジン」2021年10月に掲載された内容に加筆・訂正を加えたものです。
100%の力を出しきるための選択
札幌市内の周回コースで行われた東京五輪男子マラソン。蒸し暑い気象条件のなか、朝7時にスタートしたレースは、予想どおり、中間地点までは大集団が形成されスローペースで進む展開に。大迫はその集団後方に付きながら、レースを進めていた。 25kmを過ぎると五輪連覇を達成するエリウド・キプチョゲ(ケニア)が集団の先頭に立ち、30kmの給水地点を過ぎると一気に抜け出す。その背中を追う第2集団は6人。大迫はそこに無理に付かず距離を置いて8番手で粘り強く走り続けた。35kmを過ぎてからは落ちてくる選手を拾い、6位でフィニッシュラインを越えた。渡辺 多くの方々は最後のレースなのでメダル争い、銅メダルに近い走りを期待していたと思いますが、レース後に本人がコメントしたように、現実的には入賞狙いのレースになりました。非常に冷静だったと思います。
というのも、大迫選手は日本のどの選手よりも、世界のトップクラスの選手と練習やレースを含めて渡り合い、真の意味で本当の世界を知っている選手です。だからこそ、「メダルを狙う」とは言わず、レース展開を見ながら自分の力を100%出しきることに注力したと思います。結果的に、勝負どころと見ていた30km過ぎで2位集団が出たときに無理に付かなかった判断が奏功し、6位入賞という結果につながりました。
30km過ぎで付いていけばもっと上を狙えたのではないかという意見も耳にしました。しかし、2時間3~4分台の自己ベストを持つ選手に対して付くだけなら付くことはできたと思いますが、42.195km全体を通して力を発揮することはできなかったと思います。怖い物知らずのように集団に付いていって、結果、20位、30位になって「よく戦った」的なストーリーは、彼にとって美談にはなり得なかったはずです。大きく崩れることなくやり切れたからこそ、本人も「100%の力を出し切れた」と言い切った。つまり今回の6位という結果は、彼自身の実力をそのまま示したものであったといえます。
世界トップクラスの基準で大迫選手を評すれば、キプチョゲ選手は別格として2位集団に付くだけの力はなかったともいえます。初マラソンのボストン(2017年)で3位に入って以降、日本新記録を出した2020年の東京マラソンでも優勝には届きませんでした。キプチョゲ選手とこうした大舞台で直接勝負するのも初めてのことです。
期待は、われわれが勝手にしているものであって、現実にある世界トップレベルは、もっと先にあったということです。その意味ではあの大迫傑が究極の努力を重ねてもオリンピックで6位だったと考えると、今後、軽はずみに日本人がオリンピックのマラソンでメダル獲得とは口に出しにくい結果でもあったと思います。
次ページ > 身を削り続けたからこその決断