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2021-09-30

【陸上】恩師・渡辺康幸氏が語る大迫傑のラストレースとこれまでの道のり

100%出しきったと言い切るレースで東京五輪6位に入った大迫

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プロランナーとしての生きざまと
マラソンへの移行

 渡辺氏は、名門・佐久長聖高(長野)で主力として活躍していた大迫傑を早稲田大に勧誘、駅伝のみならずトラックを優先する環境を用意し、4年間の指導を通して世界に目を向けるきっかけをつくったコーチである。学生時代の大迫はスピードランナーとして頭角を表し、大学3年で迎えた2012年日本選手権10000mではロンドン五輪代表にあと一歩に迫るまでに成長。大学卒業後、日清食品グループで1年過ごしたのち、2015年に単身、渡米。プロランナーとしてスタートを切った。

渡辺 大迫選手は、大学入学当時から自分自身に厳しい選手でした。同時に競技に対しては他人に対しても求めることが厳しく、それは先輩に対しても変わりませんでした。おそらく競技に対して少しでも甘さがあるのが許せなかったのではないでしょうか。ただ、誤解のないように言いますが、競技面以外では、面倒見がすごくいい人間です。オンとオフの切り替えがはっきりしている。それは現在も変わりはないと思います。

 とにかく、ただただ強くなりたいという思いをずっと抱いていた選手です。大学を卒業した1年目は実業団で駅伝もやりながらアメリカと往復してやっていましたが、それでは強くなれないと考え、プロの世界に両足を突っ込んでいった。成功するまで帰ってこないという覚悟を決めて、単身渡米したのだと思います。ほかの選手でもそうした意志を持つことはできると思いますが、実際に行動に移すことはなかなかできないものです。そのあたりが、大迫選手の強さです。

 アメリカのプロチームは成績を残せなければすぐにクビを切られます。ほぼ全員が自分より高いレベルの選手がいるなかで必死に食い下がって生き残ってきた。その過程で、現在も指導を受けるピート・ジュリアンコーチと出会い、互いに信頼関係を築けたことも大きかったと思います。

 渡米2年目のシーズンとなった2016年、大迫は日本選手権5000m、10000mで二冠を達成し、リオ五輪に出場。しかし本番では、5000m予選落ち、10000mは17位に終わった。ここまでの過程では、マラソンという選択肢はなかったという。

渡辺 学生時代からトラックで日本代表になれると思っていましたが、世界で戦えるレベルまでいけるかといったら、そこまでは想像できませんでした。また、その先のマラソンまで見越して取り組んでいたわけではありません。

 おそらくリオ五輪の結果を受けて、何かしらのきっかけがあったと思います。当時、所属していたナイキ・オレゴン・プロジェクトのトップ選手、モー・ファラー(イギリス/リオ五輪5000m、10000m二冠)、ゲーレン・ラップ(アメリカ/同10000m5位、マラソン3位)らが本格的にマラソンに移行する時期でもあり、大迫選手もしくはジュリアンコーチが将来の方向性を模索するなか、それならマラソンに一度挑戦して適性を見てみようということになったのではないでしょうか。


学生時代はスピードランナーとして名を馳せ、16年リオ五輪には5000m、10000mで出場を果たした

 私自身は大迫選手がマラソンを走るとは考えてもいませんでした。彼のスタイルは(ストライドの長い)跳ぶような走りだったので、マラソンは難しいと見る向きも強かった。

 だから2017年にボストンで急にマラソンに挑むとなったとき、彼自身は「渡辺さんは驚くだろうな」と言っていたようです。

 ところが最後のきつい上り坂のあるボストンのコースでいきなり3位。本人もレース後に「自分にはマラソンの適性がある」という旨のコメントを残していたように、後半崩れなかった。順位、内容ともに大きな自信になったはずです。その後はあれよあれよという間に「マラソンの大迫傑」のイメージが定着していきました。

 走り方も明らかに変わってヒザから下を振り出さなくなり、ピッチ走法に変わりました。意図してそうしたのか、自然とそうなったのかは分かりませんが、ただ、毎回毎回強くなる姿を見て、強くなりたい、人より脚が速くなりたいという心の強さは、目つきなども含めて、昔と変わってないなと感じながら見ていました。

構成/牧野 豊 写真/椛本結城、BBM、JMPA

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